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ひしぞかし。心いぢにておはせし殿にて、さばかりかぎりにおはせしに、ねたさに內に參りて申させ給ひしほど、こと人すべてもなかりし事ぞかし。されば東三條殿つかさどり給ふ事も、ひたぶるに堀川殿のひざうの御心にも侍らず。事のゆゑはかくなり。關白は次第のまゝにといふ御文思しめしより、御いもうとの宮に申してとり給へるも、最後におぼす事どもしてうせ給へるほども思ひ侍るに心强くかしこくおはしましける殿なり」」。〈この堀川の攝政の御末おひさらずこそあれいみじうしどけなかりけることかな。〉

     太政大臣爲光のおとゞ

「「これ九條殿の御九郞君、大臣の位にて七年、法住寺のおとゞと聞えさす。正曆三年六月十六日にうせ給ひにき。御年五十一。後の御いみな恆德公と申しき。御子をとこ七人、女君五人おはしき。女二所はすけまさの兵部卿の御いもうとの腹、今三所は一條攝政の御むすめの腹におはします。男君たちの御母、皆あかれあかれにおはしましき。女君一所は花山院の御時の女御、いみじう時におはせし程に、御子はらませ給ひて八月にてうせ給ひにき。今一所は入道中納言の北の方にてうせ給ひにき。男君太郞は左衞門督さねのぶときこえさせし、三十八にて惡心起してうせ給ひにしありさまは、いとあさましかりし事ぞかし。人に越えられからいめ見ることは、さのみこそおはしあるわざなるを、さるべきにこそはありけめ。同じ宰相納言におはすれ〈なイ〉ど弟には人がら世おぼえの劣り給へればにや、大納言あくきはに我もなられなむとおぼして、わざとたいめし給ひて、「この度の大納言のぞみ申し給ふな。こゝに申