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り渡らせ給はじを、殿はこのつかさめしのほどすぐして、ついたち頃には必ずおはしましなむと、きのふの御つかひも申しけり。御文にはいかゞ聞えさせ給へりけむ」といへど、いらへもせず、いと物思ひたるけしきなり。「折しもはひかくれさせ給へるやうならむが、見苦しさ」といへば、向ひたる人、「それはかくなむ渡り給ひぬると御せうそこ聞えさせ給ひつらむこそよからめ。輕々しういかでかは音なくてははひかくれさせ給はむ。御物まうでの後は、やがて渡りおはしましねかし。かくて心ぼそきやうなれど心にまかせて安らかなる御住ひにならひて、なかなか旅心地すべしや」などいふ。またあるは、「猶暫しかくて待ち聞えさせ給はむぞ、のどやかにさまよかるべきや。京へなど迎へ奉らせ給へらむ後、おだしくて親にも見え奉らせ給へかし。このおとゞのいと急にものし給ひて、俄にかう聞えなし給ふなめりかし。昔も今も物ねんじして長閑なる人こそ、さいはひは見はて給ふなれ」などいふなり。右近「などてこのまゝを留め奉らずなりにけむ。老いぬる人はむづかしき心のあるにこそ」と憎むは、めのとやうの人を譏るなめり。けににくきものありきかしとおぼし出づるも夢の心ちぞする。かたはらいたきまで打ち解けたることゞもをいひて、「宮のうへこそいとめでたき御さいはひなれ。左のおとゞのさばかりめでたき御勢ひにていかめしう罵り給ふなれど、若君生れ給ひて後は、こよなくぞおはしますなる。かゝるさかしら人どものおはせで御心のどかにかしこうもてなして、おはしますこそはあめれ」といふ。「殿だにまめやかに思ひ聞え給ふ事變らずば劣り聞え給ふべきことかは」といふを、君少し起きあがりて、「いと聞きにく