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べきかぎりはえりてなむなさせ給ひける。さるきほひにはわれもわれもときしろひけれどおとゞの君聞しめして「あるまじきことなり、心ならぬ人すこしもまじりぬればかたへの人苦しうあはあはしき聞え出でくるわざなり」と諫め給ひて十餘人ばかりの程ぞかたちことにてはさぶらふ。この野に蟲どもはなたせ給ひて風すこし凉しくなり行く夕暮に渡り給ひて、蟲の音きゝ給ふやうにて猶思ひ離れぬさまを聞えなやまし給へば、例の御心はあるまじきにこそあなれと偏にむつかしきことに思ひ聞え給へり。人目にこそ變ることなくもてなし給ひしが、うちにはうきをしり給ふ氣色しるくこよなう變りにし御心をいかで見え奉らじの御心にておほうは思ひなり給ひにし御世のそむきなれば今はもてはなれて心やすきに猶かやうになど聞え給ふぞ、苦しうて人ばなれたらむ御住まひにもがなとおぼしなれど、およすけてえさもしひ申し給はず。十五夜の月のまだ影かくしたる夕暮に佛のお前に宮おはして端近うながめ給ひつゝ念誦し給ふ。若き尼君たち二三人花奉るとてならすあかつきの音、水のけはひなど聞ゆる、さまかはりたるいとなみにそゝぎあへる、いと哀なるに例のわたり給ひて「蟲の音いとしげう亂るゝ夕かな」とて、われも忍びてうち誦じ給ふ。阿彌陀のだいずいとたふとくほのぼの聞ゆ。げに聲々聞えたる中に鈴蟲のふり出でたるほどはなやかにをかし。「秋の蟲の聲いづれとなき中に松蟲のなむすぐれたるとて、中宮の遙けき野邊を分けていとわざと尋ねとりつゝはなたせ給へる、しるく鳴きつゝふるこそすくなかなれ。名にはたがひて命の程はかなき蟲にぞあるべき。心にまかせて人聞かぬ奧山遙けき野の松