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 三代将軍家光襲職の際下附された寛永十一年八月四日の判物には、薩隅日の高六十萬五千石餘とし、始めて別に琉球高十二萬三千七百石を加へてゐる。尤も、琉球領知を許されたのは、慶長十四年琉球役以降である。 此の判物は京都に於いて受けた者で、家久旅中を以て、高辻帳もなく、員數のみ書付け差出したので、高三千石が洩れて居り、同年冬、落地の書付を江戸に於いて差出したが、之は披露されなかつたといふ。 また高辻帳は、翌十二年正月に、差出した。 其の後、寛文四年六月三日付を始め、代々の判物に於いても、領知高は寛永の判物と同額である。 寛永の判物には「目録在別紙」とあるが、領知目録は存しなかつたといふ[1]。 但し、正保三年十一月十五日付の薩摩大隅日州諸縣郡琉球知行方目録によれば、惣高七十二萬九千五百七十六石、國別にして、薩摩三十一萬五千五石・大隅十七萬八百三十三石及び日向諸縣郡の内十二萬二十四石、此の計六十萬五千八百六十三石、外に琉球十二萬三千七百十石である[2]

 之と別に、正保三年十二月十二日の知行目録があり、また寛文四年四月五日の領知目録を始め、數次の同一形式の領知目録が判物に附屬してゐる。 此等は何れも郡別の記載あり、只前者に村數の記載なく、後者には之と領知文言を有するの差異があり、且つ此等夫々郡名の文字等多少の相違點を除き、内容は大體同一である。 此等の示す郡別の村數・石高は左の如くである[3](但し、郡名の文字は寛文の領知目録により、其の内貞享元年の領知目録に於いて改めたものあり、括弧により傍注する如くである)。

  村數 石高
薩摩 伊作(伊佐) 五二 三八、四〇一
薩摩郡 三三 四二、七一九
鹿兒島郡 二七 三〇、三三九
日置郡 四八 五一、六四八
阿多郡 二〇 二三、五七〇
河邉郡 三五 三五、〇四五
甑島郡 二、七九一
  1. 舊記雑録後編巻八七・追録巻一〇・九三・一四一 島津國史巻二五・二七・二九・三〇 寛文印知集
  2. 舊記雑録追録巻一
  3. 舊記雑録追録巻一・一〇・一一・一一七 薩藩政要録巻一 寛文印知集