となすべきである。
此の藩は、徳川幕府末期に至り、漸く幕府の統制を脱し、やがて朝廷を奉じて討幕の勢力に轉じ、王政復古後、朝廷の直隷となり、明治二年、藩籍を奉還して明治四年の廢藩置縣に及んだ。仍て、藩政時代の終末は、厳密に云えば、廢藩置縣に置くべきであるが、藩がよく幕府の統制に服したのは、凡そ藩主島津齋興代までゞあるから、其の後は特に幕末維新時代として之を分つを適當とする。
要するに、此の藩政時代は、島津氏が徳川幕府の統制に服しつゝも、其の傳統を守り、更らに、新時代に則して獨自の發展を遂げ、しかも、幕末維新の際、一藩を擧げて大義の下に活躍するに至つた素地を作つた時代である。
次に、藩の名稱は、或は藩主の苗字から島津藩とし、或は藩主居城の地から鹿兒島藩又は麑藩とし、或は領域中の代表的一國の名をとつて薩摩藩又は薩藩と呼ばれた。たゞ幕府時代には、多く薩摩藩の稱を見るが、藩籍奉還後は専ら鹿兒島藩と稱した。
第一編 薩摩藩の體制
第一章 藩の領域及び人口
藩の領域は、代々将軍の領知高判物による所領安堵の形式を經て定められてゐる。 薩摩藩に對する徳川幕府最初の判物は、元和三年九月五日下附のそれである。 此の年正月、郷村高辻郡付の帳を差出すべき旨の加判安藤直次・本多正純の奉書あり、仍て、藩より差出した郷村高辻帳に基いて、此の判物が作られたのである。即ち、島津家久に宛て、薩摩・大隅及び日向諸縣郡中の百六十四村、合計高六十萬五千六百七石餘を領知すべしとあり、其の各國別内譯は、薩摩三十一萬四千八百五石餘・大隅十七萬八百三十三石餘・日向諸縣郡十一萬九千九百六十七石餘であつた[1]。 是より先き、二代将軍徳川秀忠襲職に當り、慶長十年九月、幕府は諸大名領・寺社領の石高を査檢し、島津氏からも繪圖及び田帳を差出したが、時に、島津氏に對する判物はなく、之は、前田・伊達兩氏も同様で、此等諸家が猶ほ徳川氏より特に對等の如き取扱を受けた故であらうといふ[2]。