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十年の例を、同年の周防國正税帳に據つて見るに、六月廿六日に大隅左大舎人大隅直坂麻呂、薩摩國人右大舎人薩摩君國益が都より國に下つて居る、これは續日本紀和銅三年正月に日向國は采女を貢し、薩摩國は舎人を貢すと見ゆるが如く、隼人名族の子弟であつて、都にて官仕して居たものである。 同じく周防國正税帳に、同年九月十五日に薩摩國史生雄山田連綿麻呂が下國し、十月十一日には大隅國掾土師宿禰山麻呂が上京し、翌十二日には薩摩國目次田赤染造上麻呂が上京し、十月十四日には大隅國史生日置造三立が下國し、廿日には大隅國守大伴宿禰國人が下國して居る。 斯様な際、經由する國では食料として、米・酒・鹽等を給する事となつてゐた。

 又薩・隅及び多褹は當時大宰府の管轄に屬する上から、種々府との關係が深かつたことは言ふまでもなく、往復する必要も多かつた。 天平十年の筑後國正税帳に據ると、多褹島人二十八人が牛馬の皮を大宰府に納めて歸途についてゐる事や、得度の爲に來府した多褹島僧二人のあつた事が窺はれる。

 次に年中行事の重なるものを云ふと、天平八年の薩摩國正税帳によれば、元日には朝廷を拝する儀式があり、國司以下少毅以上六十八人が出席し、次に、正月八日より十四日まで一七日の間、八巻の金光明經と十巻の金光明最勝王經とを轉讀する式がある、當時は未だ國分寺の無かつた時代で、讀僧十一人が居たのであつた。 次に春秋二季には先聖先師四座を祀る釋奠が行はれ、國司以下學生以上三十六人が式に列し、稲の外、脯三十一斤(稲一束脯一斤の割)・鰒三十六斤(稲一一斤束鰒の割)・雑腊一斗五升(稲一束腊ニ升五合の割)・雑菓子三斗(稲一束雑菓子一斗の割)・酒八斗を賜はつて居る。

 諸國の國司は史生に至るまで、郡司は主政、主帳に至るまで職分田を賜はつて居た。 薩・隅兩國は中國であるから守ニ町、掾一町二段、目一町、史生六段、多褹は下國で、守一町六段、目一町、史生は六段であつたらう。 郡司の職分田は大領六町、少領四町、主政・主帳共に二町であつた。 國司の職分田は事力が耕作するのである。 事力とは部内の人民中、中以上の戸から一年交替で探るもので、その數は、令に據れば、中國の守には六人、掾には四人、目には三人、また史生も二人を賜はり、下國では守に五人、目に三人、史生に二人であるが、和銅二年七月、太宰帥以下の事力の數を半減されたが、薩摩・多褹の兩國司及び國師僧等の分は減じてゐない。

 次に國司の食料は、薩摩國の正税帳に年料一千五百束と載せて居る。これ