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領各一人、主政・主帳各三人、上郡には大領・少領各一人、主政・主帳各二人、中郡には大領・少領・主政・主帳各一人を置き、下郡には大領・少領・主帳各一人、小郡には領一人、主帳一人であつたに過ぎぬ。 なほ國府には學生・醫生が居り、令制に從へば、薩・隅兩國には學生は卅人、醫生廿四人居た譯であり、多褹には學生廿人、醫生十六人とある。 正倉院文書天平八年の薩摩國正稅帳には、釋奠の際、國司以下學生以上三十六人と見え、元日拜朝には國司以下少毅以上六十八人と載せて居る。又國には書生數十人があつた。 貞觀十八年五月廿一日の太政官符に據れば、薩摩國には書生四十人と見えるから、大隅も大體同様であつたらう。

 國司の主席である國守の職掌は、祠社・戶口・簿帳を掌り、百姓を字養し、農桑を勸課し、所部の糺察、貢擧・孝義・田宅・良賤・訴訟・租調・倉廩・徭役・兵士・器仗・鼓吹・郵驛・傳馬・烽候・城牧・過所・公私の馬牛・闌遣の雜物及び寺・僧尼の名籍の事を掌つて居たのであるが、特に薩摩・大隅の二國壹岐・對馬・日向等の國と同じく、鎭捍・防守及び蕃客歸化の事にも預つたのである。 其の他、毎年一回屬郡を巡回して政刑の得失を明にし、庶民の疾苦を察し、敎化を垂れ、豊功を勸め、郡司の邪正治績を考へる事になつて居る。 而して大領は所部の撫養と郡事の檢察とを掌り、また裁判を行ひ、殊に訴訟は郡司の裁判を以て第一審とし、直接人民に接するものとして重大な關係を有した。 まして郡司は多く、地方譜第の者を採用する方針で、郡司とその管下の人民とは利害を共にし、互に親密な關係を維持してゐたから尙更の事であつた。

 今天平八年の薩摩國正稅帳に據ると、郡司の部內巡行は次の如くである。先づ第一に正稅の出擧幷に收納の爲に三度巡行して居る。 出擧とは正稅の一部を民間に貸付けて利殖を圖り、其の利稻を以つて諸種の經費に充てるのである。 次に計帳の手實とて、部內各戶の戶主より、戶內の人數・容貌・年齢及び課不課等を書き記したる帳簿を徴する爲に、守が目・醫師を隨へて部內を巡つて居る。 次に庸の蓆の製造を檢校する爲に、醫師が部內を巡行し、次に百姓の損田を檢校する爲に目・醫師が巡行し、次に賑給とて水旱・災蝗に遭つて不熟となつた地を視察し、又鰥寡・孤獨・貧窮・老疾で自存し能はざる者に米を施す爲に、一度は醫師、一度は史生、又一度は守が目を從へて巡行して居る。

 次に國司は、毎年部內の政績を中央に上申するために、大帳使・正稅帳使・貢調使及び朝集使等の所謂四度の使として、また其の他の理由で上京した。 天平