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路は、南朝鮮が我が國の勢力下にあつた時は安全であつたが、新羅の興隆と共に我が國との關係も昔日の如くなくなれば、朝鮮半島經由の航路は大なる脅威を感ずるものがあり、使節の安全を期するために南路を取つて支那と交通を開く必要を生ずるのである。 こゝ益朝廷の南島經營が積極的に力を致されたものと云はねばならない。

 然るに、平安朝時代に入つては、國内の種々の事情から唐との通交も漸く消極的となり、果ては公式の交渉を斷つに至るのであるから、自づと南島に對する朝廷の關心も減少して行つたに相違ない。 而も第四章で述ぶる如く、多褹島の財政は貧弱で、島司に支給の稲も太宰府管内諸國の地子を割く程であつたから、遂に淳和天皇の天長元年九月に至り、その「南海中に在つて、人兵乏弱、國家の扜城に非ず、又島司一年の給物は准稲三萬六千餘束にして、しかも其の島の貢調は鹿皮一百餘領のみで、更に別物が無く、名有つて實無く、損多く益少し」と云う理由によつて多褹國を廢して大隅國に隷し、更に「其の課口を計るに一郷に足らず、其の土地を量るに一郡に餘りあるから、從來四郡であつたが、能滿を馭謨に合せ、益救を熊毛に合わせて二郡にするを便宜とす」と云つて、遂に大隅國内の二郡に過ぎない事となつた。 茲に我が南島經營は、殆んど中止の姿の如くになつたと云つてもよい程度に變つてしまつた。