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彌人を載せて、毛人や肥人と同じく異種族と見做されてゐた。

 次に沖繩島の事は、唐大和上東征傳に

(十一月)十六日發。○廿一日戊牛。第一第二兩舟。同到阿兒奈波島。在多禰島西南。第三舟昨夜巳泊同處。○十二月六日。南風起。第一舟着石不動。第二舟發向多禰去。○七日、至益救島。○十八日。自益救發。○十九日。風雨大發。不四方。午時。浪上見山頂。○廿日乙酉午時。第二舟着薩摩國阿多郡都秋妻屋浦

と見えて居る。 阿兒奈波(阿兒奈波は阿鬼奈波の誤寫かとも云ふ)は沖繩島であらうが、益救は掖玖、益久である事は云ふ迄もなく、此の記事は續日本紀天平勝寶六年正月の條に、唐僧鑑眞等を随へたる入唐使吉備眞備等が、去年二月七日、益久島に來著したとあるに符合するものであるが、かく我が遣唐使の三船が、前後何れも阿兒奈波島、即ち沖繩に碇泊して居るので、古くから我が國に知られて居た事は云ふ迄もない。

 さて太朝臣派遣の後、養老四年十一月、南島人二百三十二人に位を授け、神龜四年十一月には南島人百三十二人が來朝して位を授けられ、天平五年六月多褹島熊毛郡大領外從七位下安志託等十一人に多褹後國造の姓を、益救郡大領外從六位下加理伽等一百三十六人に多褹直を、その他、能滿郡少領外從八位上栗麻呂等九百六十九人には居に因つて直姓を賜はつた、位階のみならず、内地の豪族と同様に氏姓を授けられた譯である。 郡司には、同じ郡内では同姓の人を用ふる事が出來ないが、延喜式式部によれば、馭謨・熊毛郡の郡司は、神郡のそれと同様、同性でも同時に併任せられ、又天平十四年八月特に制して多褹国の擬郡司并に成選人、即ち叙位候補者等は壹岐・對馬と等しく、當島に留りてその名を筑前國を通して申達することゝと定められて、種々他地方と異なる特點が存して居た。

 斯くの如く南島經營は着々進行して居たが、かくの如き進展は、また我が國と唐との通交の問題とも至大の關係がある。 而して一方、天平七年には太宰大貮小野老は高橋牛養を南島に遣はし、牌を各島に樹てゝ、島名、泊船處、有水處、及び附近への行程等を記し、遥かに島名を見て、漂着の船をして歸向する所を知らしめたが、更に其の跡、此の牌が朽壊したので、天平勝寶六年二月太宰府に勅して、舊に依つて樹てかへさせて、以て航海の便を計つたのは南島との往來、殊に遣唐使節の便を計つたものである。 日唐通交上、朝鮮沿岸經由の所謂北