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伊勢大神宮以下諸社に奉られ、十一月には文博勢、刑部眞木等が南島から歸京して位を進められた。 而して此の覔國使派遣中、察末比賣・久賣・波豆・衣評督衣君縣・助督衣君弓自美及び肝衝難波等が、肥人を從へて刑部眞木等を剽却した事の故に、四年六月竺志惣領をして之を罪せられた。 衣君は前述の如く、薩摩の南端の肝衝氏は大隅の南端の豪族であり、薩未比賣・久賣・波豆の事は詳かでないが、恐らく衣君と共に薩摩の南方のものであらう。 恐らく此等の豪族は、地方の土豪として威を張つてゐたものが、これまで中央の力は北から彼等の地方に波及してゐたのに、今や南島の經營着々進められ、南島に派遣された覔國使が轉じて大隅・薩摩半島の南端まで巡視すると云ふ様になつた爲めに、遂に覔國使に對して事を企てたものであらう。 若し然りとすれば、この事件の發生を見るに至つた程南島の經營が發展しつゝあつたと看取し得るであらう。 尚ほ此の事件が原因となり、又衣君、肝衝氏等の動揺に基くのであらうか、この後薩摩多褹が反亂した爲め兵を發して征討し、遂に大寶二年八月戸を校し吏を置くことゝなつた。 南島が始めて一國となり、多褹島には國府を置いたのは此の時以後のことであらう。

 その後、慶雲四年七には、使を太宰府に遣はして南島人に位を授け、物を賜ひ、和銅二年六月の勅には明白に多禰國司とあり、同七年四月には多褹島印を賜つてゐる。 またその十二月には、太朝臣遠建治等が、奄美・信覺及び球美等の島人五十二人を率ゐて南島より歸り、翌霊龜元年正月には、奄美・夜久・度感・信覺・球美等の使者が、各朱雀門より入りて方物を獻じ、次いで位を授けられて居るのであるが、之によつて考へるに、使人太朝臣は、奄美・度感より更に南西行して球美・信覺に達したのである、その球美は今の久米島であつて、沖繩島の西にあり、信覺は今の石垣島であらうが、沖繩より更に西南に在り、寧ろ臺灣に近い。 乃ち太朝臣が石垣島まで行つてゐることから考へれば、既に沖繩が我が國に服して居た事も争ふ餘地がない。

 奄美はその阿麻彌嶽が琉求國始祖阿摩美久の天降した地と傳へられ、斉明天皇の御代以來屢見えてゐるのみならず、和銅年間使人派遣の時には、我が勢力が更に遠く球美・信覺に及んだのであるが、遂に郡制が施かれなかつた處を見ると、奄美は多褹・掖玖等とは趣を異にし、單に朝貢國であつたに過ぎない事が知られるのである。 その住民は、令集解所引の古記に、夷人雑類の中に阿麻