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を中心とする事が最も得策である爲に、國府を此の島に置くに至つた。 かくて多褹を以つて南島の總稱に用ひ、他の諸島と相對する時には、一島のみを表はすやうになつたと考へられるのである。

 次に日本書紀天武天皇の八年十一月の條に、大乙下倭馬飼部造連を大使とし、小乙下上村主光欠を小使として多禰島に遣はすと載せ、翌々年八月歸京して多禰國の圖を奉つて居る。 約二ヶ年も要して居る事から、多褹一島ではなく、附近の諸島を隈なく調査したものと考へられ、奉つた圖も國圖とあるので、一國の地圖であつた事は云ふ迄もあるまい。 而して、その使人は「其の國は京を去る五千餘里、筑紫の南海中に居り、髪を切つて草の裳を着たり。 粳稲イネ常に豊かなり、一度えて兩度収む。 土毛には支子クチナシ莞子カマ及び種々の海物等多し」と報告して居る。 此處に五千餘里とある里數より見るも、一葅兩収と云う事が琉球諸島でなければ見られぬ現象であると云う事から考ふるも、此の報告に云うところは南島中でも、主として琉球の事であらうと説かれて居るが、長い報告中、特に注目に値する部分のみを載せたのであるとすれば、或はさうとも見られるかも知れない。 なほ翌月、多禰島人等が飛鳥寺の西の河邊に於て餐應されてゐるが、之は使人に從つて入京した人達であらう。 次いで翌十一年七月に、多禰人・掖玖人・阿麻彌人に禄を賜はつてゐるが、郷里に歸るに際しての賜禄であり、彼等が先に南島に派遣せられた使人に随伴して入京したものであるとすれば、南島派遣の使人は多禰・阿麻彌を視察したと思はれる。 日本書紀には更に十二年三月の條に、多禰に遣せし使人の歸つて來た記事があるのは、恐らく多禰人を送つて行つた使人の歸朝を指してゐるのであらう。

 その後、持統天皇の九年三月、務廣貮文忌寸博勢(博士)、進博参下譯語緒田等を多禰に遣はし、蠻の所居を求めしむと日本書紀に見えてゐるが、色々の都合によつて、事實出發したのは、文武天皇の二年で、此年四月になつて、覔國使人文博勢及び刑部眞木等八人に戎器を賜はつて居る。 この使人派遣の結果、翌三年七月、多褹・夜久・奄美・度感等の人が朝宰に從つて來朝し、方物を獻じ、位を授けられて居る。 度感は此の時初めて來朝したと云ふが、度感は徳之島であらう、奄美大島の南に位して、博勢等は此の島まで行つたので、恐らくそれ以南には及ばなかつた事と想像される。

 斯くの如く、南島經營は着々成功し、文武天皇三年八月には、南島の獻上物を