さて日本書紀には孝徳天皇の白雉五年夏四月、吐火羅国の男女各二人と、舎衛の女一人とが日向に漂着し、斉明天皇の三年七月にも、覩貨邏國の男二人、女四人が、初め
〈 〔補説〕 但し吐火羅はタガロであつて、タガロ人と考へられる事から、これをフイリツピン人の來朝とする學者もありが、吐火羅を寶と説き、即ち寶七島の古名であるとする學者が最も多い故、今暫く之に從ふのである。 〉
また日本書紀所引伊吉博徳の書に、斉明天皇五年九月、博徳等が唐に向ふの途中、百済の南方で逆風に遭い、南海なる爾加委島に漂着し、島人の爲に滅され、内五人が漸く島人の船を盗んで支那に渡つたと載せて居る。 この爾加委島は喜界島かと説かれて居る。
その後、天武天皇六年二月に、初めて多禰島人が飛鳥寺に於いて餐を賜はつた事が傳へられてゐる。 多禰は多褹とも作り、今日の種子島であつて、屋久(掖玖)よりもなほ近く、大隅半島と海を隔てゝ隣して居る點から、古く、日向より大隅東海岸に進んだ中央文化は、其の餘波として此の島を經て、次に掖玖に及んだものと想像するに難くない。 從つて此の島人も、掖玖人の來朝と遠からざる時期に來朝したのであらうが、前述の如く、古く此の邊の群島が掖玖の名によつて代表されて居た爲に、其の名が比較的遅く史上に見えるのであらうと考へられる。 しかし、道順から云つても、此の島の方が近く、南島統治上、此の島