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多褹國は多禰國とも書き、その創置は詳かでないが、日本書紀天武天皇十年の條に、中央から派遣の使人が多禰國圖を奉つた事が見えるが、未だ國司を置いたとは考へられぬ。 蓋し薩摩と殆んど同時代に一國となつたものであらう。その郡は既に續日本紀天平五年の條に熊毛・益救・能滿の三郡の名が載せられ、天長元年に益救郡を馭謨郡に併せた事が見えてゐるから、或は奈良朝時代から四郡の設置を見たものであらう。

 大隅國の創置は、以上の二國よりもなほ遅れ、和銅六年四月に、日向國から肝坏・贈於・大隅・姶羅の四郡を割いて、初めて大隅國を置いたのである。 その後、天平勝寶七歳五月、菱刈村の浮浪九百三十餘人が郡家を建てん事を願つて許されたから、次で一般の郡として獨立し、これが即ち菱刈郡となつたであらう。 而して律書殘篇には五郡とあるが、日本後紀延暦二十三年三月の條に桑原郡の名が見えるから、奈良朝時代の末には六郡となつてゐたであらう。

 而して郡は從來評と書かれ、督は大領、助督は少領に相當する、郡は大領・少領の支配下にあつたが、この郡司は、當時他の諸國に於いても多くの譜第の者を探用したのであるから、この地方に於ても勿論、多く地方譜第の豪族がこれになつたのである。 この郡の下には、もと里なる行政區劃があつたが、これは後に郷と改められ、郷内の部落を指して里と云ふ様になつた。

 大寶令の制度によれば、里は五十戸と定められて居たが、戸は一家を指すのでなく、五等親を包含する大家族であつたから、家數としては其の數倍に達するのが常である。 薩摩・大隅兩國の郷里に就いては、律書殘篇に、

薩摩國  郡十三 郷廿五 里六十 去京行程十二日
大隅國  郡 五 郷十九 里廿七 去京行程十三日

と見える。 此の薩摩・大隅兩國の郷里制度については詳かに知ること能はざるも、この律書殘篇の記載は、ほゞ信用して差閊ないものである。 郷里は戸が基礎となつて居るのである故、その設置は戸籍法の施かれた時で、遅くとも前述大寶二年の戸を校し、吏を置いた時に始まつたと考へられる。 蓋し吏は郷長を指すのであらう。

 薩摩の國府は高城郡の地に在つて、今の薩摩郡川内町の可愛山陵より西北の屋形ヶ原と云ふのが、國司の役所、即ち國衙の遺蹟であらうと考へられて居