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孝徳天皇白雉四年の條に、「薩麻之曲、竹島之門」と載せ、又文武天皇四年六月の條に、「薩末比賣・久賣・波豆」と見えるが、未だ國名ではなく、また大寶二年四月の條に、筑紫七國の名が見えて居る故、當時も未だ薩摩地方は日向國に屬して居たのである。尤も右の薩麻、或は薩末の文字を充てゝゐる處が何處の邊を指す明瞭ではないが、恐らく後の薩摩郡の地方を指すものではなからう。 蓋し薩摩の國の中心は、可成り早くから阿多を去り、薩摩地方に移つたもので、舊稱によりて阿多とも云ひ、又は薩摩なる號も用ひて居たものであらう。 國造本紀に薩摩國造を擧げ、新撰姓氏録に阿多御手犬養氏を薩摩若相樂の後として居るのを参照すべきである。

 薩摩國としては、續日本紀大寶二年八月の條に、薩摩多褹を征討し、戸を校へ吏を置く事を載せ、同年十月の條に唱更國司の語が見え、「今薩摩國也」と註するのが最も早く見えるものである。 唱更とは隼人の義で、上文に薩摩隼人とある故、唱更國司と載せたのであらうが、大寶二年八月の條に、「校戸置吏」とある語句には、國司を置く事も含まれて居ることも考へられる。而して、明白に薩摩と見ゆるは、其の後八年を經過した和銅二年六月の勅に、「薩摩多禰兩國司」とある故、大體その以前に一國となつた譯である。 而してその各郡の建置に就いては今明確に出來ないが、續日本紀の文武天皇四年の條にある衣評は後の頴娃郡と推論して差閊ないであらうが、和銅二年の條に見える隼人郡は、何處の邊の郡で、その後如何になつたか判明しないが、或は薩摩郡の邊でなからうか。 併し正倉院文書天平八年薩摩國正税帳や唐大和上東征傳及び續日本紀等には、高城郡・河邊郡・阿多郡及び甑島郡の名があり、更に正税帳の内容からも十三郡と推論出來、律書殘篇には明らかに薩摩國十三郡と記載されて居る、九條公爵家本延喜式及び和名抄にも十三郡となつてゐることから見れば、奈良朝時代以來十三郡が置かれたのである。

〈 〔補説〕 古事記傳には「隼人司義解に、隼人者分番上下、一年爲限云々とある意を以て、其ころ唱更とは書たりしなり」とあり、三國名勝圖會所引の本田親孚の説には、「初めて國を建、阿多隼人の號を停め、薩摩の隼人と稱したる歳なれば、となへあらたまりかはる國の守といふこゝろにて、唱更とは記すなるべし」と云つてゐるが、唱更の文字は史記の呉王濞の傳に、卒踐更、■興平買とあるを、正義に、踐更、若今唱更行更者也と解すものに依つたものであらう。

三國名勝圖會に唱更國司の如きは、隼人國司とあるのと同義なりと稱し、上句に先是征薩摩時と記し、下句に唱更國司言すとあるは、上句薩摩の字を承る故唱更國司は即ち薩摩隼人國司の略語ならんと。 〉