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大化改新の後國郡制定の際、薩隅の地は盡く日向國の管轄に屬して居たのであるが、續日本紀に、大寶二年、薩摩多褹の隼人が平定された後に、「初めて戸を校し吏を置く」とあつて、こゝに於て、薩摩の地方に戸籍法が施行される事となり、更に下つて天平二年三月の太宰府の言上にも、大隅・薩摩の兩國の百姓、建國以來、未だ曾つて班田せず、其の所有の田、悉く是れ墾田にて、相承して佃り、改むるを願はない、若し班授の制を布けば、恐らく喧訴するであらう、よつて舊來のまゝ自佃せしむる事となつたとある位であつて、他の國々の如く、百姓の墾田を収めて口分田を授くるに至つたのは、漸く延暦十九年十二月の事である。斯くの御問状態であつた故、當初薩隅兩國が日向國に屬して居たと云つても、尚ほ特別な行政地域として取扱はれて居たのである。

 日向國を北から南に進んだ中央の經營の力は、一方有明灣沿岸、大隅平原の方に開拓の歩を進められると共に、他方大淀川を溯つて川内川の上流に向つたことゝ推測することが出來るであらう、菱刈柵の存在の如きも、東から西へと薩摩地方に進んだ中央の力のあとを示すものと見る可きであらう。

 然るに、續日本紀文武天皇四年の條に、衣評督・同助督の名あり、又、大寶二年十月の條には唱更國司とあり、和銅二年には隼人郡司の名が見出されるのを以て見れば、この頃漸く薩摩半島方面の經營も進んで行つたことゝ思はれる。 隼人郡司の如きは、或は阿部比羅夫が蝦夷征伐に當つて、淳代・津輕・後方羊蹄等に郡家を置いたと云ふものと同一類のものと考へてよからう。 督・助督は即ち後の大領・少領で、多くは隼人中の豪族であつたことは、隼人を率ゐて上京した魅帥酋帥を郡司とも記してゐることによつても窺ふことが出來る。 かくして中央の勢力に接し、その統御に服した地方に郡を設け、更に國として獨立した行政區轄となつて行つたと見て差閊なからう。

 かく薩隅兩國は、初め日向國に屬し、郡制は早くから施かれたやうであるが、なほ郡の外に地方の汎稱として大隅と阿多との語が屢、用ひられ、その多くは隼人の冠辭としてであるが、持統天皇の六年に、沙門を大隅と阿多とに遣はすとあるが如きは、明らかに土地名として用ひられてゐる。 然るに續日本紀になると、大隅に對して薩摩の語が用ひられて居る、これは間もなく薩摩國が創置された爲であらうが、また、薩摩國の中心が阿多郡より薩摩郡方面に移動した事を表はして居るのでなからうか。 但し、薩摩の名は、これより前日本書紀