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あつて、それが大隅直の一族として興起したらしく考へられるのである。 しかし大隅直の一族の方が、地勢上中央と接近し易かつた故、他の國の國造と同様直姓を賜はり、早く中央文化を受けて廣大なる古墳を營み得る程度に達したものと想像出來る。

 然るに中央政府の施政方針は、他の地方も同様であるが、特に本縣地方に對しては殆んど各豪族の自治に任せ、それ等豪族を通じて中央の統治に從つてゐたものである。それは他地方に多く見らるゝ朝廷直轄地なる屯倉が一も當地方になかつた事からでも察しられよう。 但し五百木部・日置部・建部等の部に屬する人が見える故、此等の品部領を當地方に迄及ぼして設置したかとも考へられるが、此等も當地方の豪族が中央に接近する便宜上、其の部民となつたとも考へられる。大伴部の如きは殊にさうであつたのであらう。 又それだけそれ等豪族と中央權貴との接觸交渉が多くなつて來たことを認めねばならない。 勿論、隼人の首領は古より配下の隼人を率ゐて上京し、又舎人・帳内として貴人に仕へるものも多かつたが、此等は天恩に浴し、進んだ文化に接する事とて、進んで上京奉仕したことであらう。

 斯くの如く、國造時代に於ける中央政府の施政方針は極めて寛大であつて、國内の政治は専ら各豪族の自治に任じ、賦役の如きも上京の際、方物を奉る程度であつたと想像される。 從つて、新撰姓氏録額田部湯坐連の條に允恭天皇の御代に薩摩隼人を平定したとの事が見えるが、それは一局部の事か、或は文武天皇の御代頃の隼人叛亂の事が反映した附會の傳説に過ぎないものであつて、事實史上に見えず、早い時代に隼人叛亂と云ふ事がなかつたと見る方が穏當と考へられる。 しかるに大化直後に於いては、班田収授法さへ實施せずして、なほ特別の行政區としたとは云へ、漸次他地方と同一に律せんとした事は争はれない事で、そこに當地方の豪族としては窮屈になつたに違ひない。 これが文武天皇の御代以後の隼人反亂の原因と考へられるのであらう。