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る。 この薩末比賣等と前述の薩摩君との關係は不明であるが、衣君が頴娃郡の豪族とし、肝衝難波を大隅半島南部の肝屬郡地方の豪族と推定して差閊ないとしても、これ等が肥人等を率ゐて暴擧を企てたと云ふ處に考へなければならない點があらう。 或は彼等が今まで北からの壓迫を感じてゐた處に、此度南へ覔國使の派遣となり、刑部眞木等が海上薩摩・大隅半島の南端を視察したに當つて、地方の土豪が事を企てたものでなからうか、更にこれ等衣君や肝衝難波が隼人族の豪族ではなく肥人族と關係があり、或はその首領と解すべきでもあらうか。

肥君 肥人の首領たりし氏であらう。 天平八年の薩摩國正税帳に某郡の大領正六位下勲七等肥君と見え、又他の某郡の主張に肥君廣龍の名あるのによつて、此の一族が相當の勢力のあつた事が察しられる。

朝戸君 播磨國風土記に日向肥人朝戸君と見えるが、之は和名抄に據つて見るに鹿兒島郡安薩郷の氏かと云はれてゐる。

加士伎縣主 天平八年の薩摩國正税帳の阿多郡主政に此の氏が見える。 加士伎は甑かと云ひ、又加治木かとの説があるが、恐らく後者で、曾縣即ち囎唹郡の西、後世の桑原郡方面が加士伎縣で、此の氏は其の縣主の後であつたと考へられる。

 其の他に古く、五百木部・大伴部・建部・石作連等に屬する者があり、また日置郡・薩摩郡日置郷等の地名があるを見れば、日置部も居つたことであらう。

 以上に據つて、はじめ大隅平原には大隅國造大隅直の一族があつて、この地方を支配し、北隅、囎唹郡方面には曾縣、或は桑原郡方面には加士伎縣があつて、夫々縣主がこれを支配して居た。 薩摩方面では阿多君が最も勢力を振ひ、後に薩摩郡方面にも及んで薩摩君と呼ばるゝに至つたであらう。 其の他、薩摩の南端頴娃郡、大隅の南端肝屬郡等には、肥人か、尠くとも隼人族でない豪族が割據し、薩摩國内、他の地方にも肥人族の占據地があつたらしく考へられる。 その内、隼人族は早くより中央に忠誠を盡し、其の首長なる阿多・大隅の兩氏は尊貴なる家系を傳へ、中央よりも相當の待遇を受けて居た。 而してその傳説に據れば、阿多君が最も尊貴なる名族であつて、最初阿多地方を根據としてゐたが、古事記に阿多の小椅君の妹阿比良比賣と云ふ方の見ゆる如く、阿多より萬瀬川に沿うて鹿兒島灣に出で、更に内海を横切つて姶良地方に移つた氏人が