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郡の郡司であつた事は、諸國々造の後裔にのみ見るところであり、屢薩摩隼人を率ゐて上京した事は、勿論一族中の頭梁であつた爲であるが、なほ天平十年の周防國正税帳に、

 廿六日下傳使大隅國左大舎人无位大隅直坂麻呂、薩麻國人右大舎人无位薩麻君國益、将從一人、合三人、四日食稲四束四把、酒六升四合、鹽二合四夕と見える。 かく大隅直と共に薩摩隼人を率ゐて上京し、大舎人に任ぜられた處など見ると、益々既述の如くこの一族が古への阿多君の後裔と考へられ、更に國造本紀の薩摩國造は此の氏を指すかと想像されるのである。

前君 天平八年の薩摩國正税帳の某郡の少領に前君乎佐と云ふ人が見えるが、この人は 續日本紀天平十五年、天平勝寶元年、天平寶字八年等の條にも載せて、最後には外正五位下を賜はつて居る。

加志公 隼人の首領で、續日本紀神護景雲三年の條に、加志公島麻呂なる者が見える。 何處に居たか詳かでないが、出水郡加紫久利神社の祭神は此の氏の人で、久利とは君の意だと云ふ説がある。

其の他、甑隼人がある、其の甑島の隼人である事は云ふ迄もない。また天平七年の國郡未詳計帳に隼人國公の名が見えて居る。

尚ほ此の外にも相當の豪族があつたかも知れぬが、文獻に豪族にして明白に隼人とあるのは以上の諸氏だけである。 從つて以下に擧ぐる豪族は何れも相當勢力があつたと考へられるに拘らず、隼人上京の際に一も其の名の見る處のないのを思へば、或は隼人とは別族であつたかと想像されるが、未だ十分に説明することが出來ない。 薩摩國は和名抄に十三郡にして三十五郷とあり溯って律書残篇に據れば、同じく十三郡にして廿五郷とあり、一郡平均二郷に達してゐない。たとへ和名抄に據るも、伊作・揖宿・給黎の三郡は僅に一郷を以つて一郡を建てゝ居るに過ぎないが、大寶の制、一郷を以つて一郡を建つるを得ず、又事實他國に例を見ない事であるのに、しかも當國に斯くの如き例あるは、そこに古くから何等かの特種の事情があつたからであらう。 蓋し種族若しくは部族を異にするものが小地域に割據し、廣く之を併せて統治する事の困難であつた爲でなからうか。

衣君 薩南頴娃郡の豪族であらう。 續日本紀文武天皇四年の條に薩末比賣・久賣・波豆及び衣評督衣君縣、助督衣君弖自美と肝衝難波とが肥人等を從へて覔國使刑部眞木等を剽却し、竺志惣領をして決罸せしめられた事を載せてゐ