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君細麻呂、荒俗を教喩し、聖化に馴服すと載せ、また天平十二年の條に「降服隼人囎唹君多理志佐」とあり、翌年閏三月の條には外正六位上曾乃君多理志佐と載せて、外從五位下を賜ひ、十五年七月の條に「天皇御石原宮餐於隼人等」とあるところには、外從五位下曾乃君多利志佐とあつて外從五位上を賜はつて居る。其の後、神護景雲三年の條には、曾公足麻呂類聚國史巻百九十延暦十二年二月の條に曾於郡大領外正六位上曾乃公牛養の叙位の事が見える。 曾縣主は續日本紀天平勝寶元年八月の條に外正六位上曾縣主岐直志自羽志、加禰保佐を載せて居るが、これは前述の如く曾縣主志自羽志、岐直加禰保佐の錯亂であらう。蓋し曾縣とは、後の囎唹郡で、縣主は此の地方一圓を支配していた氏であらうと想像せられる。 なほ天平八年の薩摩國正税帳に主帳外少初位下勲十等曾縣主麻多なる者が見える、これは此の縣主の一族で、次第に繁衍して隣國の郡司に補せられたものに違ひなからう。

阿多君 阿多隼人の首領であつて、古事記及び日本書紀に尊貴の家系を載せて居るが、大寶以降は正倉院文書天平七年の國郡未詳計帳に阿多君吉賣なる十六歳の一少女を載せて居るに過ぎない。 尚ほ山城に移住せし阿多隼人の内には、承和三年に阿多忌寸を賜へるものもあるが、阿多君の後裔とは考へられぬ。 此等から考へると、阿多氏は奈良朝時代以前既に衰へたのか、或は大寶以後、國史上には阿多隼人の稱呼絶えて、薩摩隼人の稱が之に代つたと同時に、阿多君も薩摩君と稱するに至つたものであらうか。 新撰姓氏録の右京神別に、阿多御手犬養を火闌降命六世の孫薩摩若相樂の後と載せ、天平八年の薩摩國正税帳の阿多郡かと思はれる條に、少領外從八位下勲十等薩摩君鷹□と載せて居る、これは續日本紀天平寶字八年の條に、外正六位上薩摩公鷹白に外從五位下を授くとあり、又神護景雲三年の條に、外從五位下薩摩公鷹白に外從五位上を賜ふとある人で、當時は大領であつたらう、薩摩氏でも特に秀でた人であつたと考へられる。

薩摩君 薩摩國第一の大族であつて、天平八年の薩摩國正税帳に大領薩麻君福志麻呂、主政薩麻君宇志々、及び阿多と思はるゝ郡の少領薩麻君鷹□及び主帳薩麻君湏加を載せて居る。此のうち宇志々と云ふは、續日本紀天平寶字八年正月の條に、薩摩公宇志とある人と同人であらう。續日本紀にはまた神護景雲三年の條に、薩摩公久奈都の名が見える。 此の一族の者が、斯く一國内數