Page:Kagoshima pref book 1.pdf/61

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に、高塚式古墳を營む程度に達して居たが、一方、之を刺激したのは、隣接せる日向の古墳文化であつて、西都原古墳群が代表する文化は海岸傳ひに容易に當地方に入り得たものと思はれるのである。 換言すれば古代日向の燦然たる文化の一部を擔當するものと解すべきであらう。 實にこの地方人士がよく中央文化を攝取して出來たものと思はれる。 その古墳が外觀の壮大なるに比して、副葬品の豊かでないことは或は此の故ではなからうか。 兎に角、それ等古墳は大隅國造と至大の關係を有し、國造大隅氏は薩隅地方開發の魁をなしたものと考へられる。 其の古墳の築造年代等は、もとより容易に窺い難いが、國造本紀に大隅國造は、仁徳天皇の御代置かれたとあるけれども、横瀬古墳、唐仁町大塚の前方後圓墳等は之より時代やゝ下りたる處あるを感ずるのである。

岐直 大隅郡岐郷に據つた豪族である。 岐郷は、和名抄に大隅郡岐と載せ、高山寺本の和名抄には支刀として居る、支は岐字の省略である。 岐は日本書紀に岐神とあるのを、古事記に船戸神と載せて居るので、フナトと訓ずべきで、刀の字を補つても同訓と考へられる。 フナトのトは港御津ミトのトで、船着場所の意味で、岐直は郡内の要津に據つて居た豪族と推測されよう。而して大隅氏と同様、直姓を稱するを見れば、其の一族であらうとも考へられる。 此の氏族に就いては、續日本紀天平勝寶元年八月の條に、外正六位上曾縣主岐直志自羽志、加禰保佐並に外從五位下を賜ふと見えるが、曾縣主の姓は曾君なりと考へられ、且つ縣主と他の姓とを重複した例は全くなく、而も此の文を見るに加禰保佐に氏姓の記載なきを見れば、或は曾縣主志自羽志、岐直加禰保佐の錯亂と考へられる。

加志君 姶羅郡の豪族であつて君姓である。 續日本紀天平元年の條に姶羅郡少領外從七位下勲七等加志君和多利、神護景雲三年の條に、加志公島麻呂等が見え、共に外從五位上を賜はつて居る。

佐須岐君 同じく天平元年の條、加志君の次に佐須岐君夜麻等久々賣が外從五位下を賜はつた事を載せて居るのを思へば、之も或は姶羅郡の豪族か。 尚ほ同人は天平十五年七月に至り、更に外正五位下を賜はつて居る。

曾君 また曾乃君・囎唹君等に作る、曾縣主たりし氏で、北部大隅第一の名族と考へられ、一族は隣の薩摩にも行き渡つて居る。 續日本紀和銅三年の條に、曾