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 此の氏は大隅を氏名とするによつて、大隅國内でも大隅郡に住んで居た事は想像するに難くないが、大隅郡の境域は後世甚だしく混亂して、最初大隅と云つた地が何處であつたかを探る事は困難である。 しかし確實に當地方の郡郷を記載した最古の記事と考へらるゝ大隅國風土記仙覺の萬葉集註釋巻三所引に、大隅郡串ト郷と明記するによつて、少くとも串ト郷、即ち後世の串良地方が大隅郡であつた事は疑ふ餘地がない。 次に和名抄所載當國の郷名は、今日多くは解し難くなつては居るが、其の内、大隅郡姶﨟と云ふは、今の姶良地方であつたに遠ひない。 果して然らば、當時の大隅郡は尠くとも、串良より姶良方面に及んで居たと見なければならず、大隅氏は此の地方の豪族であつたであらう。

第三圖 古代地名

 而して前述の如く、此の地方は、薩隅兩國中、唯一の高塚式古墳の群集地域である故、此等の古墳は此の氏と密接なる關係を有するものと考へられよう。 然らば如何なる理由によつて、此の氏は、上古に於いて既に高塚式古墳を築造する程進んだ文化状態に達し得たのであらうか。 それはまづ地理的關係にも因るのであらうが、大隅隼人は阿多隼人よりも古くから中央に接近して居た。 而して其の首領大隅氏は薩隅兩國中他の豪族と異なり、早く直姓を稱し、天武天皇の御代には忌寸姓を賜はつて居た程であつたことを擧げなければならない。即ち大隅氏は大隅隼人の首領として、他の薩隅諸豪族よりも、一層中央に接近した爲に、其の文化の影響を受くる事も多く、次第に他の諸國々造と同様