Page:Kagoshima pref book 1.pdf/59

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は文意甚だ通じ難い。 多くの學者は大隅國造の條の「治平」とは、「隼人と同祖初小を治平す」の意で、初小はソヲと訓ずべきで囎唹を指して、景行天皇の御代熊襲を治平した事を云ふと説いて居るが、妥當とは考へられぬ。 また薩摩國造の「伐薩摩隼人等」とは其の意味は明白であるが、前述の如く、大寶以前は未だ薩摩隼人の語がなく、殊に日本書紀の文に據れば、景行天皇が當國に御巡幸あらせられたらしくないから、此等は後世、天皇の御西狩が薩摩にも及んだと考へて假託したものでなからうかと思ふ。 次に前掲の文に見える曰佐と云ふのは、長と云ふ語と同訓である故、假借したもので、隼人の長を國造に補したと説く人と、曰佐は通譯で、始め隼人族のうち京畿地方の言語に通ずるものを通譯とし、後に之を國造にしたと説く人とがある。 直は國造のカバネである故、爲直とは國造と爲す意であるが、薩摩には、大隅と違つて未だ國造と云ふものも、直と云ふものも他の文獻に見えない故、果して此の記事の如きものがあつたか否か詳かでない。 なほ多褹国造の事に就いては後章に於いて説明しなければならない。

 縣主には、加士伎縣主と云ふ者と、曾縣主と云ふのとがあり、其の他の豪族は君(公)と稱して各地を支配して居た。 今各地に割據して居た豪族を擧げ、當時の状態を簡單に説明して見よう。

大隅直 大隅は又大住、大角等に作る。 大隅直は大隅國第一の名族であつて、大隅隼人の首領であるが、他の薩隅諸豪族の殆んど總べてが君(公)姓なるに對し、此の氏が直姓を稱して居た事は、早くから中央と密接なる關係があつた爲と考へられ、又諸國國造の殆んど凡てが直姓なる事實より推して、此の氏は大隅國造の家と考へられるのである。 而して天武天皇が八色の姓を制定し給ひ、當時の名族に眞人・朝臣・宿禰・忌寸等の高級の姓を賜へる際、當地方で其の榮に預つたのは、此の氏唯一族に過ぎなかつた。 此の點から云へば、薩隅第一の名族と云はねばならぬ。 而してこの際大隅直が賜はつた姓は忌寸であるが、この後なほ直姓のものがあつたことから見ても、この忌寸姓の大隅氏の地方や中央に於ける强勢を推測せしむるに足り、中央の權貴と伍する豪族であつたと云わなければならない。

〈 [補説] 天平七年の國郡未詳計帳(山背國綴喜郡大住郷のものと推定される)に、大住忌寸足人及び大住忌寸山守の名があり、天平十年の周防國正税帳に大隅國左大舎人大隅直坂麻呂を載せ、續日本紀神護景雲三年十一月庚寅の條に大住直倭及び大住忌寸三行等の名が見える。 〉