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時代末期のものらしくそうぞうされるのである。北薩にては伊佐郡の菱刈・大口・西太良等の諸地方に存し、大口なる一士壙は比較的完全に保存されて居るが、内部は空虚である。尚ほ此の式のものは出水郡及び都城方面にも存在すと云ふ事である。

 次に組合せ石棺を有する式のものは伊佐・出水・薩摩の諸郡に多く散在し、形は多く楕圓形又は長方形で、巨大な蓋石で覆はれて居るのが常であつて、前者よりは、もつと古いものでないかと考へられる。

 叙上のごとく、大隅平原を中心とする地域には高塚式古墳が認められるのに對して、薩摩地方には簡素な地下式土壙及び組合せ石棺を有するも封土なき古墳がある許りであることは、薩摩地方に於ける古墳文化受容の仕方の一班を推知せしめるものである。


第四章 國造縣主の設置と諸豪族

 日向・大隅・薩摩地方の國造の事は、先代舊事本紀中の國造本紀に、

日向國造

輕島豊明朝御世。豊國別皇子三世孫老男定賜國造

大隅國造

纒向日代朝御世。治平隼人同祖初小。仁徳帝代者伏布爲曰佐。賜國造

薩摩國造

纒向日代朝。伐薩摩隼人等。鎭之。仁徳朝代曰佐改爲直。

と載つて居る。日向國造に就いては、第一章に於いても述べたが、景行天皇の皇子豊國別皇子三世の孫老男が、應神天皇の御代初めて日向國造となり給ふたと云ふので、豊國別皇子の御母御刀媛は實に諸縣君の女で、この關係から老男が日向國造になり給ふたことゝ考へられる。 たゞ日向國造の及ぶ地域に就いては詳かでないが、決して諸縣地方のみとか、又は後世の日向國の地と限つて考ふべきものではなからう。 然るに大隅國造と薩摩國造とに就いて