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手打貝塚に於ける鐡製利器の使用を示唆する骨角製品の存在と相俟つてその年代が考へられてくるのである。因に手打貝塚は指宿上層と全く並行する彌生式土器を中心とするものである。

 此等の事實は何を語るか、又は文獻に現はれたる神話・傳説並に史實と如何なる交渉を持つかは今後の研究を俟たなければならない。 或はその分布の上から繩文式土器と熊襲と又は肥人とを關連せしめ、次に彌生式土器と隼人とを連繋せしめて考察し、殊にある時代、隼人が彌生式土器を使用したであらうと想像することも可能であらうが、縄文式土器の使用と彌生式土器の使用との別によつて、直ちに以てその使用した種族を確然と定めることは危險であると云はなければならない。

 次に土器を中心として遺蹟の分布を考へると、大體三つの地域を想定することが出來るのである。 一は西海岸地方であり、二は大口盆地を中心とする地方、三は大隅平原及びその外縁をなす地方である。 この内、海岸地方では阿多貝塚に出土する所謂阿多式及びそれの發展せる形式と考へられる市來地方の土器、それに肥後國阿高貝塚に出土する土器と系統を同じとする末期型