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於ては、國分地方以西に比して、繩文式土器の分布が極めて稀薄である。 この事は國分地方以西薩摩各地は、大隅方面に高塚式古墳の築成が盛行する際にあつても、猶ほ且つ石器時代、若しくは金石併用期を彷徨してゐたと考へせしめるのであるが、更に此等の地方は太古より可なり後世にまで石器時代或はそれに近い状態であつたと考へられよう。

 本縣に於ける繩文式土器と彌生式土器との關係は指宿町十二町字下里の遺物包含層の示す遺物の層位的事實から如實に説明することが出來る。此の地は開聞岳に近く、地下約十二尺以下は稍や黄色を帯びた火山灰であるが、其の上部の地か約十尺以下の層からは繩文式土器や石斧・骨・木炭等が發見され、その上部、地下約六尺以下は再び火山灰の堆積をい見るのである。 此の火山灰は恐らく鰻池の噴火に基づくものと考へられるが、この火山灰層の上部、地下三尺の間からは、彌生式土器・凹石・石斧・祝部土器などが發見され、その上に泥流盤層、その上が再び火山灰層に終つて居る。 之は最初、繩文式土器を使用した此の地の住民が噴火に依りて絶滅、或は他に避難した後、噴火の恐怖が薄らぎかけた時代に、彌生式土器を使用した人達によつて占據され、更に再び噴火