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 此等他の品部に入れられた者以外、單に隼人として、京畿の近くに住んで居たものも尠くない。延喜式には、隼人が五畿内、並に近江・丹波・紀伊等に住んで居る事を載せて居り、正倉院文書の天平七年の國郡未詳計帳は、或は山背國綴喜郡大住郷のものかと推論されるのであるが、これによつて當時可成り多くの隼人が移住してゐたことが知られる。 更に新撰姓氏録には山城神別に阿多隼人を、大和神別に大角隼人を収めてをり、なほ二見首を富乃須洗利命の後として居るが、これも亦隼人族の氏であつたと考へられる。而してこれらの隼人の内には大化以後移住の者もあらうが、其れ以前から居たものも多い事であらう。

 而して朝廷に奉仕した隼人の職能に就いて見るに、日本書紀の海幸山幸神話の條に、或は俳優の民と載せ、或は今に至る迄天皇の宮墻の傍を離れず吠狗して事へ奉ると云ひ、また犢鼻を着し、赭を面と掌とに塗つて溺れ苦しむ種々の態をなし、今に及ぶまで廢絶なしと見え、又は古事記に盡夜の守護人と爲つて奉仕せんなどあるのは、古事記・日本書紀の編纂當時の状態であつて、之を大寶令に隼人司を衛門府の被管とすることと併せ考へれば、隼人は武勇を以つて朝廷に奉仕し、宮墻を守護し奉るとゝもに、隼人特有の風俗歌舞を演じてゐたものと思はれる。

 なほ、隼人は前述の如く古く阿多隼人と大隅隼人とによつて代表されて居たが、その内、阿多隼人の首長なる阿多君を、古事記・日本書紀が特に尊貴なる家系を有する氏として載せたるを思へば、阿多が隼人の本源池で、後に大隅にも移つたものかと考へられ、神武天皇の皇妃阿多の小椅君の妹吾平津媛は、大隅二移りし阿多君の一族の御方かと思はれるのであつて、隼人の歌舞も或は阿多地方の海岸に發達したらしく感ずるのである。

 隼人が薩摩大隅兩半島を中心とし、次第に北方に繁衍したのに對し、肥人は主として薩隅の北方より日向・肥後の南部に亘る山地に居たらしく考へられる。隼人族の如く文獻に多く顕はれてないが、古くは相當勢力のあつたもので、播磨國風土記の賀毛郡山田里猪養野の條に、仁徳天皇の御代、日向肥人朝戸君なる者が猪養野の地を賜はつて猪飼を始めたと載せて居る。 こゝに謂ふところの時代は傳説に過ぎまいが、兎に角、肥人が、かの地で猪を飼養して居たのは事實であらう。又日本書紀雄略天皇十三年の條に、播磨國御井の隈人文