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日本磐余彦尊も初め高千穂宮におほしましたと古事記にある故、高千穂宮は御三代の皇居であると云ふ説がある。 しかしまた盧茲草葺不合尊の御陵は吾平山上陵と稱し、神日本磐余彦尊の妃を吾平津媛と申し、其の吾平とはいづれも同一の土地の名に因まれ、其の地は後の姶羅郡の地であらうと思はれるから、尊は此の地方に皇居を奠め給ふたかとも考へられるかも知れない。 御陵は古事記には見えず、延喜式には「日向吾平山上陵 彦波瀲武盧茲草葺不合尊、在日向國陵戸」と載せ、御陵名は日本書紀と同様である。御陵の所在に就いては國内に異説殆んどなく、明治七年七月十日、肝屬郡姶良村大字上村と御治定あらせられた。

 神日本磐余彦尊は日本書紀の一書に狹野尊とある、蓋し神武天皇御幼少時の御名である。 古事記には「若御毛沼命亦の名は豊御毛沼命、亦の名は神倭伊波禮毘古命」と見えて居る。 御年十五にして皇太子に立ち給ひ、後に吾田邑吾平津媛を妃となし給ひて手研耳命が御誕生あらせられた。吾平津媛は古事記に阿多之小椅君の妹阿比良比賣と見える。 阿多の小椅君とは、日本書紀に火闌降命の御子孫であらう。吾

吾平山上陵