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も鹿兒島神宮の古傳に、此の地を彦火火出見尊の皇居のあとであると傳へてゐる。 鹿兒島神宮はいま官幣大社に列せられ、彦火火出見尊を奉祀してある。昔時は薩・隅・日三州唯一の大社であつて、延喜式神名帳には「桑原郡鹿兒島神宮大」と見えて居るが、中世は専ら正八幡宮と呼ばれて居た。兩者の關係については後章に述べなければならない。

 彦火火出見尊の御陵は古事記に「高千穂山之西」と載せ、日本書紀に「日向高屋山上陵」とあり、延喜式には、「日向高屋山上陵 彦火火出見尊、在日向國陵戸」と見えて居る。 此の御陵は神代山陵考や神代三陵志の如く、後世肝屬郡内浦郷北方村なる國見嶽の嶺とする説と姶羅郡溝邉郷麓村の北方神割岡とする説とに分れて居たが、明治七年七月十日御裁可を經て今の姶良郡溝邉村大字麓の地と御治定あらせられた。

 彦波瀲武盧茲草葺不合尊は西洲の宮にましまし、海神の女玉依姫を納れさせられ、彦五瀬命・稲飯命・三毛入野命及び神日本磐余彦尊が御降誕あらせられた。西洲の宮の所在については詳かでないが、西洲は即ちたゞ西方筑紫の日向の事であつて、同じく高千穂宮を指すのでなからうかとの意見もあり、又神