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間岬かとも云はれている。
天孫が笠狹の碕に到りませる時に、この地に事勝國勝長狭なる者があつた。天孫に其の土地を獻じ、天孫は此處に宮殿を營み給ひて、大山祇神の女鹿葦津姫を納れさせられ、やがて、火闌降命と彦火火出見尊とが御降誕あらせられた。鹿葦津姫は日本書紀の註に「亦名神吾田津姫、亦名木花開耶姫」と載せ、また一書には神吾田鹿葦津姫・豊吾田津姫などと記し、古事記には神阿多都比賣、亦の名木花之佐久夜毘賣と見える。其の御名の吾田(阿多)は地名に因み給うたものであらう。彦火火出見尊の御降臨の折、尊の御臍を截り奉つた竹刀を棄てた所が竹林となり、その所を竹屋と號するとある。 而してその御降臨地は前引塵袋に閼駝郡竹屋村とあり、加世田の内山田に竹屋ノ尾と稱する地ありて特種の竹あり、又近くの宮原に高屋神社があつて、往古この地から遷座したと傳へられて居る。
さて天津彦彦火瓊瓊杵尊は久しくましまして崩じ給ひ、其の御陵は、日本書紀に「筑紫日向可愛之山陵」と載せ、延喜式の諸陵寮に「日向埃山陵 天津彦彦火瓊瓊杵尊、在㆓日向國㆒、無㆓陵戸㆒」と見えて居る。阿多附近について云へば、其の東南
可愛山陵