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進められてゐる。 これ等に據りて考へるに、霧島神と高智保神とは別々のものであるが、延喜式には高智保神の記載はなく、日向國諸縣郡に霧島神社を収めてゐる。

 然るに、釋日本紀八巻並に仙覚の萬葉集註釋十巻に引用せる日向國風土記の文に臼杵郡の知鋪の郷を説明して、天津彦彦火瓊瓊杵尊が、日向之高千穂二上峰に天降りまして、後人この地を改めて智鋪と號したと載せて、即ち天孫御降臨の地を臼杵郡知鋪郷の高千穂であるかの如く傳へて居る。 なほ和名抄は日向國臼杵郡に知保郷を収め、其の地と相接する肥後國阿蘇郡にも知保郷を載せてゐるが、前者は後世長く高千穂庄と呼ばれてゐた。

 特に此の日向國風土記から見ると、天孫の御降臨と傳へられた地は日向國臼杵郡の高千穂かと思はれるのであるが、この風土記はたゞ、智鋪の地名と高千穂の語との近似を以て地名傳説に引用したものではなからうか。

 日本書紀に襲の高千穂と言ふ襲が、同書景行天皇十二年及び十三年の條に見ゆる襲國即ち熊襲の襲、又豊後國風土記・肥前國風土記及び肥後風土記[1]等にある球磨・囎唹・球磨・贈於・玖磨 囎唹の贈於であり、後の囎唹の地であらうから、その地域はよし時によりて多少廣狭の差があつたとしても、後世永く霧島山の西に遺つてゐる囎唹郡に比定するに支障のないことであらう。日本書紀に見ゆる襲の高千穂が、遥か北方に隔つた日向國臼杵郡の高千穂を指すものとは考へられない。 即ち襲の高千穂は臼杵郡の高千穂を指すものではない事が明白と云はれやう。

 尚ほ、この天孫御降臨の地が襲の山であつたと云ふ傳は、懐風藻の序に「襲山降蹕之世」と云ひ、延暦十三年八月藤原継繩が續日本紀撰進の表類聚國史巻一四七に「襲山肇基以降云々」と見える、其の他新撰姓氏録の序に、「天孫降襲西化之時、神世伊開、書紀靡傳」と載せ、又は山城國風土記釋日本紀巻九所引に「日向會之峰天降坐神」とある。また、續日本紀延暦七年七月己酉の條に、大隅國贈於郡會之峰と記されてゐる。こゝに日本書紀一書の添山の文字を京都の向神社所藏の日本書紀古寫本にソホヤマと傍訓してゐることゝ、薩藩名勝志に「紀に襲之高千穂といふ今の囎唹郡をいふなり、一書に添山峰といふ囎唹山の峰をいへるならん」と述べていることを注意して置かう。

 然るに塵袋の六に引用する風土記に、

  1. 釋日本紀巻十所引