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 この天孫の御降臨に就いては、日本書紀に

降於日向襲之高千穂峯矣既而皇孫遊行之状者。則自槵日二上天浮橋。立於浮渚在平處

とあつて、その一書には、「筑紫日向高千穂槵觸之峰クシフルノタケ」とあり、或は「日向槵日高千穂之峰」と載せ、或は「日向襲之高千穂槵日二上峰」と、又は「日向襲之高千穂添山峰ソホリノヤマノタケ」などゝ記して、古事記には「竺紫日向之高千穂之久士布流多氣クシフルタケ」と載せてゐる。

 此等の事は太古以來の神話の事とて、古事記・日本書紀の編纂當時、既に上述の如きいくつか異稱があつた程で、高千穂之峰と、久士布流多氣、即ち槵觸之峰と、二上峰と、或は添山峰など云ふものが、或は凡べて同一地域に存する廣狭大小の山岳名の如くにも思はれるのであるが、一方から考へると、古く色々に異つたものとして傳へられたものを、其の後、混淆して一つに考へられて、それが上述の如き數種の傳へとなつたとも見られる。 又高千穂の久士布流多氣、或は高千穂槵觸之峰と云へば、高千穂なる地域内の槵觸峰の意であり、槵日と同一語とすれば槵觸峰即ち二上峰とも考へられるが、また槵觸峰と二上峰とは別の傳であつたものが、槵觸を槵日として二上に冠することによつて、同一山岳名となつたとも観察され、更に添山峰と云ふは又別の傳かとも思はれる。而してこの天孫の御降臨の地に就いては種々説があるが、その内で、これを宮崎縣臼杵郡の高千穂の地とするものと、或は霧島山に比定するものとがあり、なほこの二説いづれとも解釋出來ると考へて、巳むなく兩山を共に其の霊地とする学者[1]も存するのである。

高千穂の地名に就いては、續日本後記承和十年九月甲辰の條に、日向國無位高智保皇神が無位都濃皇神と共に從五位下に進み給ひし事を載せ、次いで三代實録天安二年十月廿二日の條に、日向國從五位上高智保神が同じく都農神と共に從四位上に進み給ひし事を載せて居る、共に郡名を擧げていない。また續日本後記承和四年八月壬辰朔の條には、日向國諸縣郡霧島岑神が官社に預るとあり、三代實録天安二年十月廿二日の條には、霧島神とあつて從四位下に

  1. 補説:本居宣長の古事記傳の一説に、「初めに先づ降り著き給ひしは臼杵郡なる高千穂山にて、其より霧島山に遷り坐して(中略)、かゝれば神代の高千穂と云ひし山は此の二處なりけんを」とあり、平田篤胤の古史成文に、「瓊瓊杵尊、於高千穂二上峰天降坐之時(中略)既而移幸襲之高千穂槵日二上峰矣」と