Page:Kagoshima pref book 1.pdf/19

提供:Wikisource
このページはまだ校正されていません

の一大轉換の時であると共に、これより後は次第に中央の積極的開發があつて、施政の一變を來したことも言を俟たない所である。

 大化改新以降奈良朝時代から平安朝時代にかけて、後鳥羽天皇の御代に至る五百年は即ち律令制度による時代で、地方は中央から派遣された國司の統治下にあり、各種の地方制度は完備し、なほ中央の文化が移植されて大いに地方が開發された時代で、これを國司時代と呼ぶのである。併しながらその後半期は中央に於ける律令制度の頽廢と、地方に於ける國司政治の變遷とによりて、庄園の發達、地方豪族の擡頭興起等を促す時代である。

 次は守護時代と呼ぶ時代にして、後鳥羽天皇の文治元年より後柏原天皇大永五年までの間である。即ち源頼朝朝廷に奉請して諸國に守護を置き、軍事警察の任に當らしめ、庄園の地頭は次第に關東御家人として幕府の権を笠にし、爲めに、これより後、國司の勢力衰へ、政権次第に武士階級に移り、國司は有名無實となつた。然れども建武中興以降、殊に室町中期以降は幕府の統制地方に及ばず、政権全く守護の手に歸する時代であり、次でこゝに新なる豪族割據の端を開くに至つた。

 地方豪族は室町幕府の勢力失堕と共に、互に崛起して、各地は割據獨立の姿となつた。 その間、守護島津氏の勢力漸く四隣を壓して全盛時代を将來した。之を特に分國時代と呼ふ。島津貴久出でゝ薩・隅・日を完全に掌握し、更に少貳・大友の兩氏を倒して、殆んど九州を統一するの概を示すに至つた。 然るに豊臣秀吉の九州征伐に會ひ、島津氏一度膝を屈して薩・隅・日に退かねばならなかつたが、なほ一方に雄視することが出來たのである。

 天正十五年秀吉に屈した島津氏は、更に慶長五年九月關ヶ原合戦以後、徳川幕府の下に一諸侯として一藩をなした、即ち藩政時代である。然れども、その末期、嘉永・安政以降は一藩擧つて新時代の先鞭をつけ、勤王討幕の先鋒となり、遂に維新回天の偉業、皇権恢復に翼賛し奉つた。斯くして大政奉還となり、次の明治の時代に入るのである。

 次で島津忠義等の首唱により、明治二年、全國の諸侯は版籍を奉還し、明治政府は愈其の基礎を固め、同四年に廢藩置縣を断行し、七百年來の封建制度を全く終焉せしめた。此處に於いて、鹿兒島縣も創置されたのであるが、常時、縣内外の情勢から、縣政上他府縣と稍趣さを異にする處があつた。明治十年の