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  昭和十年十月の國勢調査の結果に據れは、本縣人口總數は百五十九萬一千四百六十六人にして、密度は一方里に付二千六百六十七で、郡別にすれば、揖宿郡の四千二百十六人を最高とし、熊毛郡の九百四人を最低とする。


第二章 時代の推移

 本縣は畏くも天孫御降臨の霊地にして、神代御三代の御陵亦縣下に御治定になつた。 これ誠に縣民の最も光榮とし名譽とする所である。たゞ神代の御事ども、縡太古に屬して、神典に據つて窺ひ奉るの外更に詳にすること能はず、今猥りに説を樹つべきものでない。然れども天孫天津彦彦火瓊瓊杵尊より御三代を經て、神武天皇の御東遷ありて後、帝都を去ること遥かに遠く、西海に在りて數百年、神代の霊蹤も漸く土豪跳梁の巷となつた事も巳むを得ざるものと謂ふべきである。

 その後景行天皇御父子三代の御巡狩があつて熊襲服屬し、皇室の徳化漸く洽く及ぶに至つて國造・縣主の設置を見るに至り、後國造時代を經て孝徳天皇の大化改新に及ぶのである。當時は地方制度未だ確立せず、各地の豪族が國造・縣主として朝廷の命を奉じて施政の任に當つた時代である。 たゞ本縣は大化改新と同時に他の地方と同一に取扱はれたものではなく、その後もなほ中央から特別なる行政區域として遇されてゐたが、大化改新は實に我が國史上