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つて、臺明寺竹と云ひ、古くから朝廷に奉獻し、平治元年七月十一日の國牒以下、此の笛竹に關する文書多く、應保二年十月廿九日の大宰府下文には、「箆竹を御所に貢するは、天智天皇の御代以來」と載せ、嘉應元年十月九日の臺明寺住僧等の解には「神武天皇御宇之時、被箆竹貢御所」と云つて居る。


第五章 郡郷の沿革

 大隅國は和銅六年四月、日向國より分置の際は、肝坏・贈於・大隅・姶羅の四郡であつたが、前に述べた如く、次いで菱刈・桑原の二郡を増し、更に多褹島の廢止と共に、馭謨・熊毛の二郡を加へて八郡となつた。延喜式民部に中國とし、管郡を、菱刈・桑原・贈於・大隅・姶羅・肝屬・馭謨・熊毛の八郡と載せ、和名抄も之に同じである。

 菱刈郡は大隅國の最北に位し、東は日向國諸縣郡に隣し、北は肥後の球摩、葦北の二郡に、西は薩摩國出水、高城の二郡に接して居る。 天平勝寶七歳五月、菱刈村の浮浪九百三十餘人が郡家を建てん事を願つて創置された郡で、和名抄には比志加里と訓じ、羽野・亡野・大水・菱刈の四郷を載せて居る。 この内、羽野郷はハノ、或はハヌと讀むのであらうが、現今之に當つべき地方がない、よつて、羽月村かと云ひ、或は柞野の譌りでタラノと讀むべきで、即ち後世の太良院かとの説もあるが、共に詳かでない。 次に亡野は高山寺本和名抄には出野と載せて居るが、また共に今當つべき地がない。 よつて色々推論されて、國郡沿革考は或は山野の誤かと説いてゐるが、これが最も有力で、即ち後の牛屎院の郷域