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たり下ったりしている軒燈だけだった。

「浅草なんだ。俺は浅草を歩いているんだ」

 彼は眼を細くして、首と肩とをガタガタのめらせながら、又歩き出すのだった。非常に早く歩いているつもりだったが、その実僅かしか前には進まないのだった。

「変だなあ、いくら行っても同じような所じゃないか。畜生! 曰本のうちには違いないんだが、それにしても一人位誰かに会いそうなものだな」

 真夜中の一時を既に過ぎている事に一向平気な土井はこう呟いたが、偶然、背後うしろの方のバタバタと云う足音を聞いた。

「いよう」

 土井は救われたような気になって、急いで振向いたが、街上には犬の子一匹見えなかった。

「ちょっ」

 彼は舌打をして又歩き出した。

 右に折れ左に曲り、或時は狭い路の溝板を踏み鳴らしたり、或時はやや広い通りに出て、ブラ下っている看板みたいなものを、ステッキで叩いたりしているうちに、だんだん街燈の数が減って、いよいよ物淋しくなって来た。

 土并はもう歩くのが嫌になった。

 と、背後の方で又パ夕パタと云う足音が聞えた。急いで振返ったが、例の如く生物らしいものの影もなかった。

 土井は舌打をしながら歩き出したが、又パタパ夕と云う足音が聞える、立止ると、足音も消えるのだった。

「なあんだ、自分の足音か」

 夜道を独りで歩くとよくある奴で、自分の足音がパタパ夕と背後から響く事がある、それだと思ったので、土井は又歩き出したが、背後に響く足音はどうも自分の足音が反響するものとは思われなかった。が、何度振り向いても、少しも足音の正体は分らなかった。

「畜生! 誰か俺をつけてやがる」

 土井は無性に腹が立って来た。彼はグルリと振向くと、ステッキを斜に構えて、大声に呶嗚った。

「さあ出て来い。俺の後をつけてる奴は誰だ!」

 けれども声は徒らに四辺あたりの闇に反響するだけで、答えるものもなく、姿を現わすものもなかった。寝静まった両側の家からは、酔漢の叫び声に態々わざわざ窓を開けて見るような物好もなく、相変らずしーんと静まり返っているのだった。

 土井はいささか張合抜けのした形で、又もや当度あてどなく、熱い息をぷうぷう吐きながら進んで行った。

 暫らくすると、又背後の方でパタパ夕と云う足音が嘲るように聞えるのだった。

「畜生!」

 ちょっとした四つ角のような所だったが、土井は急に出来るだけの早さで、半廻転してステッキを振り上げた。

「ば、馬鹿にするなッ! 用があるなら出て来い」

 が、相変らず、そこには何にもいなかった。そうして驚いた事には、土井は背後からそっと肩に触るものがあるのを感じたのだった。