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「土井さん。ステッキ」

「やあ、有難う」毎度の事なので、土井は苦笑して受取りながら、「さあ乗り給え」

「土井さん、私達は失敬します」満谷が云った。

「え?」土井はステッキにもたらかそうとした右の肘をストンと滑らして、前へのめりながら、車内から叫んだ。「好いじゃないか。君、一緒に来給え」

「失敬しますよ。いってらっしゃい」

 床水は笑いながら云った。二人は途々みちみち相談でもしたと見えて、気を利かしたのか、それとも敬遠したのか、中々乗ろうとしなかった。

 その中に運転手は交渉を面倒と見たか、車をそろそろ動かし出した。

「さようなら」

 床水と満谷は一緒に叫んだ。

「じゃ、失敬」

 仕方なく土井は別れの挨拶をしたが、心には何となくみたされないものがあった。若い二人の気持が彼のそれにピッタリと来ないのが、佗びしくもあった。

 自動車は疾駆し始めた。

「なあんだ、ちょっ、来れば好いじゃないか」

 土井はウトウトしながら口の中でグツグツママ呟いていた。

「浅草はどちらですか」運転手が呶鳴った。

「雷門」土井はハッと眼を覚ましながら答えた。

 彼は東京には少年時代から二十数年を送っているけれども、浅草の事情は殆ど知らなかった。浅草と云えば雷門から這入って、観音堂から六区に脱け、活動写真の一つも見て田原町の方へ出る外は知らなかったのだ。震災前まで聳え立っていた十二階へは一度も昇った事はなく、花屋敷も一度這入ったかと思うが、殆ど記憶に残っていないと云う有様だった。彼は雷門を除いては自動車を乗りつける所を知らなかったのだった。

 雷門で下車すると、土井の酔は一時に発したらしかった。それから暫らくの間、彼は殆ど記憶を喪失してしまった。ただ、流石に人通りの少くなった仲見世を、右に左にヒョロヒョロと、不規則な弧線を描きながら、雷門を這入り、観音堂を一廻りした事を、微に覚えているだけだった。もしその時刻に彼を尾行した人があったら、彼が渇いた唇をなめながら、

「変った所へ行けなけりゃ、変った事にぶつからないさ」

 と呟き呟き夢遊病者のように、観音堂の裏から薄暗い小路へ、フラフラ歩んで行くのを見た事であろう。



 土井は長い坑道を歩いているような気持だった。両側には飛々とびとびながら軒燈もあり、仰げば暗澹とした空も見えるのだったけれども、彼にはどうしても穴と云う感じだった。行けども行けども、果てのない地獄へ通う抜穴かと思われた。

 彼は時々、よろめく足を踏みしめて、立止りながら、仔細らしく首を曲げて、町名を書いた札を物色するのだったが、結局彼の眼に映ずるのは、ピントの合わない朦朧もうろうたる家並と、ボウッとして上っ