Page:KōgaSaburō-The Bag of Manuscript Fee-1994-Kokusho.djvu/12

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れに対して、土井は何等の干渉を試みる事が出来なかった。彼の身体を中間に置いて、一つの生命が他の生命を滅ぼそうとしている。しかも土井はどうする事も出来ないのだ。女が声を出したら、老人が何とか土井に答えたら、或は形勢は変ったかも知れぬ。しかし彼等は黙々として闘っているのだ。大蛇と女鹿の睨めっこのように、そうして早晚女鹿は大蛇に生命を取られるのだ。

 老人はとうとう女の片腕を放した。彼は力委せにそれを引いた。女はよろよろと前に出たが、彼女のもう一本の腕は未だしっかり土井の腰に抱きついていたので、土井の身体はクルリと半円を画いて、背後向きとなった。

 と、ぎゃっと云う断末魔の叫び、土井が驚いて振返った時には、女は胸に一撃を受けて、苦悶しながら倒れていた。真赤な血がドクドクと胸から迸り出て、彼女の四肢てあしはヒクヒクと動いていた。

「ハハハハ。どうです旦那、人殺しの現場を見たでしょう」

 老人は女の屍体を快よげに見て、カラカラと笑った。

 が、老人の表情はみるみる曇って来た。兇悪な人相には哀愁が漂うて、両手は力なく垂れ、最早、そこには年老いた一箇の哀れな醜い老人が立っているに過ぎなかった。

「だが、可哀そうな奴でさあ、ねえ、旦那」彼の声はしめっぽかった。「奴は逃げも隠れもせず、潔よくあっしの手にかかって死んだって、人にそう云ってやって下せえ。あっしは奴が憎くて耐まらねえので、殺すにしても人のいねえところでコッソリやったんじゃ承知が出来ねえので、旦那に来て貰ったんたが、奴の覚悟は立派なもんでさあ、ねえ旦那。あっしゃお尋者なんで、今度捕まりゃ首がねえんです。だが、もうおかみにお手数はかけやせんや、あっしゃ名乗って出ますよ」

 彼はそう云うとしおしおと二三歩行きかけたが、又立ち戻って、土井の手に、持っていた血だらけの短刀を握らせた。土井はそれを拒絶する勇気がなかった。

「ハハハハ」彼は淋しく笑いながら云った。「お礼でさ。飛んだ立会人になって貰ったお礼の印でさ。この短刀は案外旦那に好い運を授けますぜ。大切にするんですぜ。旦那」

 彼はとぼとぼと階段を降りて行った。

 土井は血みどろの短刀を握って、惨たらしい女の屍体の前に茫然と突立っている。



 コトリと背後で音がした。

 ハッとして土井が振り向くと、階段の所へ綺麗に頭髪かみを分けて、労働服のようなものを身につけた、三十二三の青年がヒョッコリ姿を現わした。

 彼は中の様子をジロリと見たが、格別大形おおぎように驚きもせず、眉をひそめながら、大股に室へ這入って来た。

「ちょっ、殺しちゃったのか」

 彼は土井を見据えながら、叱責するように云った。

「違う、違う、僕じゃない」土井は呟くように答えた。

「君じゃないって? 冗談云っちゃいけないよ。血だらけの短刀を握って、刺殺さすころされた屍体の側に立っていながら、僕じゃないと云ったって、誰も承知しやしないよ」

「僕じゃない、僕じゃない」

 土井は今更気がついたように、力ラリと短刀を棄てて、激しく首を振った。