Page:KōgaSaburō-The Bag of Manuscript Fee-1994-Kokusho.djvu/11

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 さて、由利の脱監を補助したものは誰か。それは衆口一致、怪盗葛城かつらぎ春雄の所為としていた。彼は神出鬼没手に負えない悪漢で、警察の持て余し者になっていたが、彼が何故由利を助けたかと云うのには、かなり理由があるので、第一に彼はその少年時代を由利の世話になって送り、云わば昔の親分と云った関係にあった事、第二には由利の情婦が男をこしらえて彼を裏切り、そのために官憲の手に捕えられた時に、恰度その直前に彼は或る富豪の邸に押入って、現金数万円と高価な宝石類とを強奪した際であったにも拘らず、彼は一銭も身につけていなかったと云う事実があつた。情婦が盗み出した形跡もないので、当局者は由利を責め問うたけれども、彼は頑としてその莫大な金品の行方については、一言も口を開かなかった。で、葛城は彼を助けて、その金品の隠し場所を云わせようと云う腹があるらしかったのてある。しかし、それが成功したかどうかと云う事については、誰も知るものがなかった。院長を誘き出した婦人は多分葛城の情婦で、彼自身は運転手に変装していたのであろうと云う推測だった。

 話せば非常に長い事であったが、以上の事実は当時土井江南が非常な興味を持って、新聞記事をくまなくあさって、知り得た所で、今でも微細な点までそらんじている位だった。

 今、せせら笑いながら、ひれ伏している女に短刀を擬している老人の恐ろしい姿を見ているうちに、ふとこの事に気がついたのだったが、未だ酔は十分覚め切らないながらも、彼の脳裡にはさっと何物かが閃めいて、一瞬のうちにすべてを思い出し、すべてを知ったのだった。

 おお、今彼の眼前に短刀を閃めかして、突立っている兇悪な人相をした男が、由利鎌五郎でなくて誰であろう。おお、今こそ思い出した、彼の左眉下から頬にかけての疵痕は、当時由利の特徴として新聞に度々書き立てられた事ではないか。そして、今彼の足許で顫えている女は? 彼を裏切ったと云う情婦でなくて誰であろう。

 ああ、鎌五郎は今こそ彼の誓った復讐を遂げようとしているのだ!

 老人は茫然としている土井には尻目もかけず、女の肩を左手でムズと摑んだ。右手には短刀の柄を握りしめて、ただ一突と構えたのだった。

 女はこの時に不意に立上った。そうして飛鳥の如く身をかわすと、突立っていた土井の背後に駆け込んだ。彼女はひしと土井の腰に両手を巻つけながら、無言でブルブル顫えるのだった。

 何故彼女は声を立てなかったか。又は階段の下へ逃げ出さなかったか。恐らく彼女は由利の兇手から逃れるに途のない事を知って、既に覚悟を決めていたのであろう。が、その死の瞬間に、彼女は生の執着の強い本能のために、思わず土井の背後に隠れたのであろう。土井の腰にまつわる彼女の腕は、か弱い女とは思えない、驚くべき力強さであった。

 老人は眉毛一つ動かさず、短刀を構えたまま、のそりのそりと土井に近づいて来た。

「き、君、そんな手荒な事は止し給え」

 すっかり酔の覚めた土井は懸命の声を振絞って叫んだ。

 が、老人は何等の表情の変化を示さなかった。彼は無言のまま、ただ一突と短刀を構えたまま、ジリジリと土井に近づいて来た。

 土井には老人に反抗する気力がなかった。老人の気組が、ただ女のみをねらって、何者にも耳を借さない、突詰めた気合がすっかり土井を圧倒してしまった。

 老人は左手を伸して、土井の腰に抱きついている女の右の腕をグッと摑んだ。

 放そうとする懸命の力と、放れまいとする必死の力とが、いずれも文字通りに命を的に闘った。そ