ないので、主任は重荷を下した訳なんだ。
こうして一件は落着したが、その後に僕はふとした事から、奇声山と親しく話すようになつた。彼の年は四十以上である事も、その時分に聞いて驚いたのだつたが、しんみり話して見ると、彼にも不平も不満もある。奇声山と呼ばれるのも余り喜んでいないらしい。
「奇声山、奇声山て、殺生や」余り悲しそうでもなかつたが、彼がそう云つた時には、僕も鳥渡同情した。全く四十面下げて、
「結搆だす、やりましよ」と云つて、裸身で角力を取るのも考えて見ると余り楽な事ではない。
彼が准社員になつてからどれ位経つた時分だか、能く覚えていない。案外直ぐだつたとも思うし、余程経つてからとも思う、兎に角、僕が引張つて来たのか、彼が押かけて来たのか、僕の家で彼と二人切りで飲んだものだ。
彼は中々酒を飲む、そうして酔うと、雄弁に喋べり出して、訊きもしない身の上話をクド〳〵話出した。それによると、彼は中々苦労している。世渡りが上手いようで、案外下手で、あちこちの会社を追われ、臨時で今の会社へ来た時には、そう困つていないように聞いたが――彼がそう云つていたのかも知れない――中々どうして、苦しい絶頂で、夜逃げでもするより他はないと云う時代だつたのだ。
「そうすると何だね」僕は云つた。
「藤田が駈落をして呉れたのが、つまり救いの主だつたんだなあ」
「そうだす」彼はうなずいた。
「奇声山、奇声山と云われても、頭を下げてゞも、あそこに置いて貰えなかつたら、どもならなんだです」
「ふうん、どんな悪い風でも誰かに好く吹く、と云う事があるが、全くだなあ」僕は感嘆した。
「けんど、私かて、あゝするには大分骨折りましたんでツ〔ママ〕せ」
酔も手伝つたんだろうが、彼は勢よくこんな事を云い出した。
「えゝッ、何だつて」
「あんた。藤田云う娘が、なんで岩元はんと逃げたんやと思うてなはる?」
「――」僕は黙つて彼の顔を見た。