Page:KōgaSaburō-Film-Kokusho-1994.djvu/6

提供:Wikisource
このページは校正済みです

フワリとくぼんで、快い接触を感じさせるようになっている。無論これは普通にある椅子と別に変りのない事である。井川博士の着眼したのは、その椅子の弾機バネである。彼はその弾機バネに少しも分らないように細い針金を連続して、誰かが椅子に腰を下して弾機バネへこむと、それは恰度電鈴のボタンを押した時と同じ作用で、電路が閉じ、電流が戸棚の中の装置に伝わる事にした。

 即ち、書斎内の革張りの椅子に誰かが腰を下すと、忽ち電流が発声フィルム装置に伝わる。それと同時に暗室内にはパッと電燈がつき、同時にフィルムが廻転を始める。かくて装置は活動を開始し、暗室の外部に少しも目立たないように開いているマイクロホンから、書斎内で喋る言葉が内部に伝わり、音響は電流と化し、電流はその強弱に応じて、電燈を明滅せしめて、フィルム上に明喑を生ぜしめるのである。

 こう云う風に述べるとすこぶる簡単であるが、前にも述べた通り博士は、これを完成せしめるのに二年の年月を費やし、フィルム上に完全に目ざす二人の会話を印するまで、更に満一年の忍耐を要したのである。それまでに、彼は何十本となくフィルムを現像しては、失望落胆を繰り返したか分らない。

 最後に博士が完全に二人の会話の這入ったフィルムを得た時には、彼がどんなに喜悦したかけだし想像に余りある。彼は深夜妻の寝静まるのを待って、苦心惨儋の結果得たフィルムを静かに廻転しながら、フィルムの発する音声に耳を傾けて、悪魔的なえみをニタニタと現わした事であろう。もし私に有名な怪奇小説家戸川とがわ嵐浦らんぽの筆があったなら、この一事を精細に描写するだけで、読者諸君を戦慄せしめる事が出来るだろうと思う。

 さてかくの如くして得たフィルムにはどんな会話が吹込まれていたか。このフィルムは後に井川博士が証拠隠滅の目的で焼棄してしまったので、正確な所は分らない。しかし、博士自身の記述した所と、博士に利用せられて、このフィルムの発声を聞いた人間の話を綜合して見ると、大凡おおよそ次の如きものである。


――先生は相変らずうるさい事を云って迫りますか。

――ええ。

――でも、あなたは先生を愛しているんでしょう。

――いいえ、ちっとも。

――奥さん、近頃あなたも旨くなりましたね。そんな心にもない事を云って、私を喜ばそうとお思いになるのですか。

――そう云う風にお取りになるなら、お取り下すっても構いませんわ。あなたは私の心持をよく御存じの癖に。

――それが少しも分らないのですよ。例えばですね、あなたはもし私とこうやっている所を先生に見つかったら、どんな事になるとお思いですか。

――それは覚悟していますわ。

――それだけの覚悟があるなら、あなたは何故私の……(聴取れず)……しないんですか。

――(聴取れず)……男の方ってみんなそんなものなんでしょうかね。

――あたり前ですよ。それが男なんですから。

――(やや久しき間) あなた私を疑っていらっしゃるんですね。

――ええ、多少はね。