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発声フィルム


 私は理学博士井川友一の犯罪を、彼の心理過程や、犯罪動機や、科学的な計画について、小説風に潤色せず、近頃流行の実話風に記述したいと思う。私にはよくは分らないのだけれども、小説は作者の把持する主張や、作者の意図或いは空想を、多少読者に強いようとする傾きがあるに反し、実話は事実以外に亘る事を出来るだけ極限し、読者に想像の自由を与え、判断を加える余他を残す所に特徴があると思う。

 さて、理学博士井川友一は、彼の犯罪が発覚するまでには、多少偏執的な所はあるが、それは学者によくあり勝ちの事であり、一般からは謹厳温厚な少壮物理学者として尊敬せられ、彼の妻玉代を除く外は誰一人彼を変態性慾者だと知る者はなかった。即ち、彼の妻玉代は唯一人の、そうして最も深く彼の変態的な事を知っている婦人であった。この事が悲劇を起す大きな原因である事は、後に思い合せられたのだった。

 井川博士を知る人達は誰でも彼の家庭を羨まぬ者はなかった。表面に現われる限りに於ては、妻の玉代は温良貞淑そのものであり、博士は品行方正そのものであり、殊に博士が玉代夫人を溺愛していた事は、反ってそれが、時に博士の唯一の非難となって現われる位であった。博士がいかに夫人を溺愛していたかと云う一例は、彼が勤務時間以外いついかなる所へも夫人を伴って行った事は有名な話で、未だに一つ噺にされる事は、某雑誌社の通俗科学座談会に出席した時にまで、夫人を同伴したと云う事だ。又、博士の犯罪が発覚した後、或る一人の門下生は、彼がかつて博士を訪ねた時に、夫人は風邪の気味で寝ていたが、博士が湯殿で何かしておられるので、何の気なしに覗いて見るに、博士は夫人の下穿ウンターホーゼをしきりに洗濯していて、振り返りざま、あの女のような白い柔和な顔をパッとあかくせられたので、非常に困った事があったと云う事を、極く親しい者だけに話した。(これなどは博士が変態性であった事を証明する事になるかも知れない)

 私は博士とは研究上の事で、度々会って話した事があるが、玉代夫人とは殆ど言葉を交した事はない。只、非常な美人で、いつも淋しげにニッと微笑んでいる婦人である位の事しか知らない。それに夫人は現存中でもあるし、委しい事を述べるのをはばかるが、彼女をよく知っている者の話では、夫人は実に典型的の日本女性で、驚くべく忍従性に富んでいると云う事である。もし、夫人にこの驚くべき忍従性がなかったら、恐らく破綻はもっと早く起ったろうと云われている。とにかく、以上の事実で、変態性の井川友一がいかに変態的に妻の玉代を熱愛し、玉代がいかに甘んじてそれを受けて (或いは忍んで) いたかが、ほぼお分りの事と思う。

 さて、破錠は彼等が結婚後約十年、博士が三十八、玉代夫人が三十二の年にやって来た。(彼等には子供はなかった) 破綻の原因は玉代夫人が、彼女よりも二つ三つ年下の、北田京一郎と云う青年と親しくなったと云う事に始まる。

 彼等がどの程度に親しくなったかと云う事は、現存中の玉代夫人の名誉にも係わるし、且つ彼女が