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 こんな囁きが賭博場カシノの一隅の卓子テーブルを取巻いて見物している人達の間に交された。

 支那事変や欧洲の戦乱も忘れたように、いや、そういうものを忘れようとしてなのかも知れぬ、今宵も国際都市の名に相応ふさわしく、英米仏独伊各国の人間が集まって、勝負に熱中している。勝負に倦きた者や、在金ありがねを取られて、もう勝負に加われない者が、その周囲まわりで見物しているのだ。

 勝負の仲間に珍らしく一人の日本人がいた。年はやっと三十を越えた位の青年で、インテリにしては筋骨が逞しく、服装もキチンとしていない所があり、労働者にしては手が白く、態度も確乎しつかりしている。一見得体の知れない青年だが、その賭けぶりが又変っているのだ。彼の賭けっぷりは全然勝とうとしているのではなく、又勝負そのものに興味があるのでもない。時々勝つ事はあっても、少しも昂奮しないし、負けても少しもせらない。負けようが勝とうが、いつも詰らないといったような顔をしている。「偶然の勝負ゲーム・オブ・チヤンス」でも勝負はやはり気合だ。そんな賭けぶりだから、いい結果はありそうな事はなく、一進一退はあっても、結局、青年の前に積まれた金はグングン減って行く。しばらくの間に二三千ドルは失ったようである。

 青年がもう一勝負しようとした時に、横腹をグイグイと押すものがあった。見ると、赤毛のドイツ人らしい男である。

 彼は横眼でグイと青年にウインクして、立てという合図をした。

 青年は立ち上った。ドイツ人はグングン歩いて行った。そうして人気の少いママ片隅に立止ると青年が追つくのを待った。

 青年が追ついて立止って、何の用か、という顔をすると、ドイツ人は片言の英語ブロークン・イングリツシユで、

『おい、もう勝負はせよ。』

『どうして。』青年は相変らず大した興味のなさそうな様子でやはりまずい英語で反問した。

『どうして? お前、お前の相手をしている男を、誰だか知ってるのか。』

『いいや、知らんよ。』

『奴アお前、なうてのイカサマ師だぜ。ガートリの賭博場カシノ切っての、いや上海中の賭博場で、インチキに掛けちゃ、奴に並ぶものはない。ジム・スペンスてえのが奴の名だが、誰一人本当の名を呼ぶものはない。「稲妻ジム」で通ってるんだ。』

『そうですかね。』

『そうですかって澄ましてる手はないぜ。綽名あだなの通り奴の手先の早業と来ちゃ、何とかして尻尾を押えてやろうと思ってどんなに見張っていても駄目なんだ。だ一度もポロを出した事がないんだ。お前の国の者は手先が器用で、随分凄い腕の者があるてえ話だが、稲妻ジムにかなう者はあるまいよ。』

『そうかなア、インチキなんて、分らないなア。全然。』

『稲妻ジムに掛かっちゃ、鯱逆立しやつちよこだちしても敵いっこないよ。まア、止めとき給え。』

『有難う、御忠告有難う。だが、僕は――』

『思い出して見給え。』ドイツ人は遮って、『君が勝つ時はいつも金額が少いだろう。大きく賭けた時はきっと取られるだろう。大分やられたようだね。少くとも二三千弗』

『未だ二三千弗残ってるんだ。僕ア、何とかして――』