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推定時間を誤らして、アリバイを作って逃れようとしたとは、看護婦をしていたというから、いつの間にかそんな智ママ識を得たのであろう。

「し、しかし」私はどもり吃りいった。「動機は、あ、あんなに貞淑で、五年の間も忍従に忍従を重ねていた女が――」

「恋なんだよ。恋されている男は何も知らないんだ。片思いだね。その男を恋するまではたとい精神病者であれ、どんな虐待を受けようが、良人を殺そうなどという気は微塵も起さなかったそうだ。その男を思うようになってから、つい恐ろしい気を起したのだそうだ。因果だねえ。考え方によっては可愛想な女さ。僕は義俠的に弁護を引受けようと思っているよ」

「その相手の男というのは、どういう男なんだい」

「絶対にいわないんだ。感心な女さね。その男に迷惑がかかってはならないと思っているんだね」

 この時に、今まで黙って聞いていた渡辺が悲痛な調子でいった。

「詰らない努力をしたものだ。死後硬直の問題など、それほど断定的のものではないから、苦心してアリバイにしようとしても、結局は無駄なんだよ。いつかはきっと発見するのだ。しかし」ここで渡辺は声を落して「死後の時間の判定を誤らして、アリバイにしようと思ったのなら、僕を呼んだのがいけないのだ。もっとすべての現象に対して、無関心なものを呼べばよかったのだ」

「そうだ」金子は力強くうなずいた。「全くそうだ。君でなかったら、窓の開いていた事にも、彼女が枯れた小枝を拾う事にも気がつかなかっただろう。しかしね、渡辺君、彼女は何とかして君に傍に来て貰いたかったのだよ」

 私は私の書いた『食卓の殺人』を思い出した。渡辺は無論彼自身が思われていようなどとは考えていなかったであろうが、ひそかに彼を恋い慕っている女を、知らず知らずのうちに絞首台に送るような証拠を指摘したのだ。殺人が発見された後は、渡辺は恐らく金子の話を待つまでもなく、みな子がやった事を見抜いていたのだろう。彼はしかしそれを摘発しなかった。みな子の哀れな立場を思って、知らないような顔をしていたのに相違ない。

 渡辺の心の中はきっと苦しいのだ。

 みな子のトリックを見破った金子さえ、得々するどころか、むしろ元気がないほどだ。

 やがて、渡辺はうな垂れながらいった。

「同情した事がかえって仇になったのだ」

「仕方がないよ」金子は気の毒そうにいった。

「人は自分の知らなかった事について、一々責任を取れないからね」

 自動車の警笛の音が遠くで微かに聞えた。判検事の一行がついたのであろう。

(初出誌不明)