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 ドイツ人の癖として昼飯にも各自めいめいビールのコップを控えて、チビチビやりながら悠々と食事を執るのが例で、松坂もいつもは喜んでその例にならうのだったが、今日ばかりはすっかり閉口して、一刻も早くこの家を出たいと、急いでコップのビールを呑み干しながら、見るともなく窓の外を見た。

 そこは小さい広場になっていた、つまり日本で云えば長屋の共同干場と云ったような所だったが、その広場を越えて向うの、この料理店と比較して、決して年代の新しくないと思われる所の、崩れかかったような家の窓際に、何かに屈託くつたくしたような風に、青白い栄養不良な顔をした少女がポツねんと坐っていた。

 しかし、松坂の眼を惹いたのはその少女ではなかった。少女の肩越しに見える室の突当りの壁に描っている所の、煤けた古い油絵の額が、彼の眼についたのだった。

 松坂は日本を出てから三年、ドイツに来てから二年程になっていた。一体彼がどうして洋行を思い立ったかと云うと、彼は父の遺して行った多くの事業を継承して、経営して行くと云う事が煩わしくてたまらなかったので、彼はそれらの事業を、それぞれ人手にまかしてしまって、別に何の目的もなかったが逃げるようにして、外国にやつて来たのだった。

 彼は外国に来て、ホッと息をついた。始ママめて安住する所が見つかったと思った。ここでは何をするにしても、故国のように周囲の人に一々気兼きがねをする必要がなく、 思う存分自由に気儘きままに拘束されない真の生活が出来るような気がした。

 彼は彼の父の意志に従って、法科を出たけれども、彼は元来そんな事は嫌いで、文学的な方面が好きで、云わば一個の芸術愛好者だった。で、父親が死ぬと直ぐに好きな道に走り、事業の方は他人委せて、こうして外国に遊学に出て、言葉がいくらか出来る関係から、ドイツに落着いたのだったが、 当初文学を研究しようと、志していた彼の考えはいつか絵画の方に変っていた。と云っても飽くまで芸術愛好家である彼は、単に鑑賞家であるにとどまって、自ら描こうと云うのではなかった。又その鑑賞にしても極く素人的で、組織だった学問を修めようとはしなかった。

 そんな訳で、彼の絵画に関する鑑賞力は頗る怪しいものだった。彼は日本にいる時は、絵画殊に洋画には甚だ冷淡で、展覧会などでも、洋画は素通りしてしまう位だった。ところが、外国へ来て方々の美術館で古来の名画と云われているものを見ると、考えがガラリと変った。日本人の洋画は欧米のどの国に出しても、少しも恥かしくないものだそうではあるが、やはり画そのものが西洋のもので、日本人にしっくりしない、どこかに隙があるように思える。ところが西洋の土を踏んで、西洋画を見ると、それが西洋人の筆になろうとも、日本人の画いたものであろうとも、何となく迫って来るものがあるように思えるのだった。殊にそれが名画として、何人からも許されているものであればあるだけ、一層頭が下るような気がした。

 彼は金と暇にかせて、諸国の美術館を歴訪して、古典的名画を貪るように鑑賞した。彼には未だ現代の絵画を見る力と余裕がなかった。それは恰度演劇と云うものに始ママめて接する人が、先ず歌舞伎劇の好さに陶酔するようなもので、松坂はただ訳もなく古名画に惹きつけられるのだった。

 そのうちに彼は名画を所有したいと云う慾望を起すようになった。と云っても、著名な美術館に珍蔵されている名画が手に入る訳がない。彼はそれらの模写で我慢をしなければならなかった。一口に模写と云っても後世の名工が写したのもあるし、中には原画に劣らぬ声価を持っているものもある位で、それらのものを蒐めるために、彼は少なからぬ金を投じた。

 彼は又一方では埋もれた名画をあさり歩く趣味を覚えた。ずっと新しい話ではあるが、有名なミレー