Page:KōgaSaburō-A Vacant House-1956-Tōhō-sha.djvu/7

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手が悪かつた。彼は家を抵当に金を借りた積であったが、正しくは借りたのではなかつた。彼は三千円で家を売つたのであつた。その代りに何月何日までに三千円持参すれば、いつでも売戾すと云う所謂戾し証がついていた。之は後に聞いた所によると、よくやる事だそうで、詰り抵当にとつただけでは、いろ油断のならぬ事があつて、対手次第では面倒な事が起るので、一旦買つた事にしておいて、その代りに、いつでも買値で売戾すと云う約束をして置くのである。こうすれば貸した方では安心していられるし――利子は家賃で十分出来る訳である借りた方では詰り抵当にしてあるのと同じ意味であるから、双方便利であると云うのである。で、藤井老人は対手が元検事であると云うので、すつかり信用して、先方の云うまゝに契約したのであつた。

 彼は約束の期限から二三日遅れて、三千円を買主の所へ持参した。別に先方から催促もなかつたし期限が二三日遅れると云う事はそう珍らしい事でもなし、喧しく云えば、延滞日歩を払えば好い位の考えで、白田――買主の名である――の所へ出かけたのであつた。所が元検事はしかつめらしい顔を一層しかつめらしくして、既に期限が切れた以上は戾し証は無効であると云つて、三百円を押し戾した。彼は事の意外に驚いた。元々抵当の積りであつたと云つて、売戾す事を再三嘆願した。然し白田は頑として聞き入れなかつた。こうして藤井老人は時価七千円の家作を旨々と三千円で買われて終つたのであつた。

 藤井老人は時価七千円のものを三千円で売る筈がないと云う事と、借家人は少しも持主の変つた事を知らずに、引続き彼に家賃を支払つていた事――之は元検事は彼に差配が依頼してあつたに過ぎないと抗弁した――などを挙げて訴訟を試み、一方では横領の刑事訴訟を起すなど、いろと骨を折つたが、丁度私と家の売買を交渉中に、すべてが無効である事が明かママになつた。

 老人はこの話を情けないような、悟つたような、諦めてはいるが、諦め切れないと云つたような表情で話した。私の青春の血は逆上した。私はこの老人に欠点があるにせよ、彼の家作をその真価の半分に充たない金額で騙し取りのようにした人間を憎まざるを得なかつた。

 私は直ぐに私の親友で、貧乏しながらも、いつでも弱い者の肩を持つて、押通している変り者の弁護士大島を訪ねた。

「ハ丶丶丶丶」彼は大きな口を開けて笑つた。

「よくある奴さ。仕方がないね。売つちやつたんだからね、時価だろうが、なかろうが知つた