Page:KōgaSaburō-A Vacant House-1956-Tōhō-sha.djvu/11

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 それから暫く藤井老人はもじしていたが、云い憎そうに口を切つた。

「つきまして折り入つてお願いがあるのですが、いかゞでしよう」一寸息をついで、ちらりと私を盗見ながら、

「その何です。訴訟のなんのと云つて騒いでいた時分には、ちやんと三千円を供託しまして、いつでも買戾せるようにしていたのですが、いよ駄目と極つて、すつかり諦めて終つてから、ついその金も使つて終つたのです。差当り三千円なければ、折角向こうが折れて来たのに、何んママにもならなくなるのですが、どうでしよう、一つあの家で一時三千円御融通願えませんでしようか。それとも相当の価で買つて頂ければそれに越した事はないのですが」

 私はもと家を買う積だつたし、いくらかの遊金は持つていたから、こゝで彼を助けてやらなければ、折角こゝまで漕ぎつけた甲斐がない、所謂仏作つて魂入れずと云う訳になるから、借りてもよし、又󠄂場合に依つては買つてもよし、兎に角彼の相談に乗る事にして、一度その家を見て置こうと云うので正午少し前、彼と共に家を出掛けた。

 問題の家は思つたよりしつかりした建て方で、古くはあつたが、見すぼらしくはなかつた。端の家は依然として空家であつたが、明るい感じのする小じんまりした家であつた。

 私はつい二週間程前に白田検事の前で喋つた事を思い出して、思わずニヤリとした。藤井老人が隣りへ断りに行つてる間に、ふと中へ這入つて見たくなつたので、裏口に廻つて、台所の硝子障子に手をかけて見るとガラガラと開いた。私は中へ這入つた。空家の中へ入ると云う事は何となく無気味なものである。座敷の閾を跨ぎながら、私はふと壁を見た。雨戸の隙間から無論日は洩れていたが壁には樹の影も何にも写つていなかつた。私は可笑しかつた。

 それから私は雨戸を開けようと思つて縁側に出た。その時である。私は向うの部屋から、確に、低い呻き声を聞いた。はつと私の血は逆流した。私はワナワナと震える手を握りしめながら、後を振り向いた。おゝ、そこには大きな男が恨めしそうな顔をして、こつちを睨んでいるではないか。そしてその頸には紫色の紐のあとがアリとついているではないか。

 私の足が私ママ身体を支󠄂える事が出来なくなつた。あたりが一層暗くなつた。然し、男の顔だけはハッキリいつまでも眼に写つていた。だんだん意識を失いかけた。

 突然アハヽヽヽと云う笑い声が聞えた。はてと我に返ると、友人の大島弁護士が私の傍に立つている。私は空家の施敷の一隅に蹲つていた。

「ハヽヽヽヽ。案外臆病だな、君は」彼は云つた。