Page:KōgaSaburō-A Vacant House-1956-Tōhō-sha.djvu/10

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壁の上には又元の通り、鮮かママに木の影が写つています。

 なあんだ、気の故かと思いましたが、もう座敷へ踏み込む勇気がありません。早鐘のように打つ胸を押えて,引返そうと思うとたんに、一種異様な低い呻き声が聞えたのです。私ははつと立すくんで、声のする方を見ますと、なんと叫んだか、どうして家を出たか、全で覚えていません。兎に角、球を転すように外へ飛出しました。むこうの部屋には瘦せ衰えた鬚だらけの男が、無念そうに凄い顔をして、ハッタと私を睨みつけていたのです。そして、その男の頸にはこの薄暗い閉された室の中で、ありと紫色の太い縊られた跡がついているのです。私はあんな恐しい眼に逢つたのは生れて始ママめてです」

「――」元検事は何とも云わなかつた。彼の眼には恐怖の色が現われていた。

 私はもう十分だと思つた。私は茫然としている彼を残して暇を告げた。

 賢明なる読者諸君の既に察して居られる通り、私が白田に話した所の物語は一二の事実を除く外、跡形もない作り事であつた。私はこの作り話を近所の噂に上らせるように、誠しやかに隣りの家の人にも話して置いた。然しこんな子供だましのような計画が成功するかどうか、甚だ心許ない次弟であつた。



 土用が開けても暑さは相変らず厳しかつた。私は次々と仲介人の持込んで来る売家の話で忙しかつたので、藤井老人の家の事は忘れるとはなしに、半月余りを送つたのであつた。所へ、或る朝ヒョッコリと藤井老人が訪ねて来た。彼は例の家が彼の手に戾る事を告げた。彼は相変らず私の顔を偸見ながら、遠慮勝に話したが、どことなく嬉しそうであつた。

「それは結構でしたね。じや訴訟が成功したんですね」

 私は案外容易く私の謀計が成就したのを喜びながら、そ知らぬ顔で聞いた。

「いゝえ、そうじやないのです」彼は答えた。

「一昨日白田さんに呼ばれましてね、私のやり方が酷かつたから勘弁して呉れと云うような事で、戾証通り三千円で戾して上げようと云うのです」

「へえ、そうでしたか。じやまあ、良心が咎めたとでも云うのでしようかね」

「そうらしいのです」

「何にしても結構でした」