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響きます。木立のやみの中から何者とも知れない恐しいものが、こっちを見つめています。後ろからも何か襲って来るようです。私は夢中で鍬を振り廻しました。

 私はギョッと立すくみました。

 着物の端らしいものが、穴の中から暗に馴れた眼に映ったのです。私はあわてて眼を外らそうとしましたが、悪夢を見た時のようにくびが微塵動きもしないのです。云い現す事の出来ない不快な悪寒、総身から絞り出る冷い汗、眼には暗の中から睨めている死人の物凄い形相が幻のようにチラつきます。私は渾身の勇を奮って、恐怖を払い落して、鍬を棄てると、両手で落ち葉を掻き分けました。

 手探りで、どうやら死人の手らしいものに触れると、私は思わずあっと手を引込めました。氷のように冷い、それでいてジメジメと云おうか、ヌラヌラと云おうか、一種異様な手触り、一秒だって触れている事は出来ません。

 私は逃げ出そうとしました。しかし頭の中で悪魔が証拠をどうすると囁きます。

 証拠! ああ悪魔よ! 私は人殺しをしたのだ。そうして証拠を残したのだ。どうしても奪い返さねばならぬ、いつか私は兇暴な心になって死人の指を開きました。

 どっちの手やら分りませんが、とにかく、最初開いた手には駒はありませんでした。もう一つの手を必死の力を奮って開けますと、どうでしよう、何にもありません。あわてて最初の手を探りましたが、矢張りありません。私は茫然としました。それから大急ぎで死骸に土を被せて元通りに致しました。手洗ちょうず鉢で手をざっと洗うと、墓場から脱けて来た人のように居間へフラフラと這入りました。この時妻はちよっと眼を見開きました。私の姿が眼に這入ると妻は忽ち起き上りました。

「御気分は?」こう彼女は聞きました。

「何ともない、もう治ったよ。便所へ行っていたんだ。」こう私が答えますと、妻は安心したらしく、ガックリと寐てしまいました。私は床に潜り込んで、寐ようとしましたが、どうにも寐つけません。両手に異様なにおいが沁み込んで、鼻についてならないのです。いて落着いて、駒の事を考えようと思いましたが、頭脳がズキンズキン痛んで何事も考える事が出来ません。今考えると、私はこの一夜の仕事で、全生涯の精力を費し尽してしまったに相違ありません。よく一晩の中に髪の毛が白くならなかったと思います。

 翌朝眼を醒ましたのはもう昼近くでした。身体が綿のように疲れて、少し熱があるようでしたが、私は将棋の事が気にかかるので、無埋に起き上りました。食事をすますと、直ぐに盤を出して、並べて見ましたが、不思議、駒はちゃんとあるのです。どう考えて見ても、訳が解りません。

 第一に心配になったのは、昨日の友人の事です。私の怪しい行動を、彼はどこで話すかも分らない。もう現在どこかで話しているかも知れない。そうすれば何かの拍子で刑事の耳に這入るかも知れない、こう考えると私は居ても立ってもたまりません。私はどうしても彼に機嫌の好い顔を見せて、昨日の事を笑い話にしてしまわねばなりません。私は直ぐに妻に彼の勤務先きへ電話をかけさして、昨日は失礼しました。今日は気分も治りましたから、帰りがけに是非お立寄り下さいと云わせました。

 夕方彼の元気の好い声が玄関に聞えました。私はすぐにいそいそと彼を出迎え、つとめて快活に話しかけて、座敷に請じると、昨日の失礼を詫びまして、余り将棋に凝ったので、頭が変になったんだろうと、果ては二人で高声に笑いました。それから一番と云うので、盤が二人の間に置かれました。

 だんだん駒が並べられて行くうちに、私は恐ろしい予感に襲われました。そして、ああ、事実は予想通りだったのです。私は化石した身体で、空虚うつろな眼で盤面を見入りました。