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と國家間の鬪爭、快適な半面だけより知らない者である。其の黨時の余の生活といへばこれとは全く正反對であつた。余は決して歷史を作り、況んや金を作る一味の如きものには屬してゐなかつた。否余は實に命令を實行する部類に屬してゐたのである。

 余は戰時の四年間一兵卒として專ら義務の完遂に勉めつつ敵前に過ごし、やがて歸還した時には、一九一四年出征黨時のそのままの無一文であつた。余はまた更に何百萬といふ味方とも運命を分ち合つた。これに反しフランクリン・ルーズヴエルト氏は單に所謂上層數萬の一味と運命を分ち合つたに過ぎないのである。

 ルーズヴエルト氏が戰後、早くも金融投機にその才能を磨きかけてインフレーシヨンと他人の困苦を惡用しつつ私腹を肥やしてゐたのに對し、余は黨時數十萬の者達と共に傷ける身を野戰病院の一隅に橫たへてゐたのである。更にまたルーズヴエルト氏が商才にたけた合法的に擁護された經濟通の政治家の出世街道を闊步してゐたのと事變り、其の當時の余は一介の無名人として史上かつてなき不法を加へられた一民族の復興の爲に死鬪してゐたのであつた。