Page:Iki-no-Kozo.djvu/97

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なものである。しかしながら、味覺、嗅覺、觸覺などは身體的發表として「いき」の表現となるのではない。「象徵的感情󠄃移入」によつて一種の自然象徵が現出されるに過󠄃ぎない。身體的發表としての「いき」の自然形式は、聽覺と視󠄃覺に關するものと考へて差支ないであらう。さうして視󠄃覺に關してはアリストテレスが「形而上學」の卷󠄁頭に云つてゐる言葉がここにも妥󠄃當する。曰く『この感覺は他の感覺よりも我々にものを最もよく認識させ、また多くの差異を示す』(Aristoteles, Metaphysica A 1, 980a)。

(一二)「いき」の身體的發表はおのづから舞踊へ移つて行く。その推移には何等の作爲も無理もない。舞踊となつたときに初めて藝術󠄃と名付けて、身振と舞踊との間に境界を立てることに却つて作爲と無理とがある。アルベール・メーボンはその著󠄄「日本の演劇」のうちで、日本の藝者󠄃が『裝飾󠄃的および敍述󠄃的身振に巧妙である』ことを語つた後に、日本の舞踊に關して次󠄄のやうに云つてゐる。『身振によつて思想および感情󠄃を飜譯することに就ては日本派󠄄のもつてゐる知識は無盡藏である。……足と脛とは拍子